2009・12・11
脳科学者の茂木健一郎さんは以前からテレビで見かけ、好感を持っていた。発想がユニークで、雰囲気が楽しく、あのもじゃもじゃのヘアスタイルも個性的。
先日、嫁が「おかあさん、私の行っている美容室にカットのうまい方がいるんだけど、一度いらしてみません?」と言われてその美容室に出かけた。カットのうまい人は若い男性でKさんといった。やってもらっている間中、確かに似ている・・・と思い、ついに言ってしまった。「茂木健一郎さんに似ているって言われるでしょ?」その美容師さんは、「ええ、ときどき・・・髪の毛でしょ」と言い、照れ笑いをした。
夕食の折、その話をしていると息子が「それって褒めてるって感じじゃないよ。」と言ったので、私はそのつもりだったのになあ・・・と首をかしげた。
1ヶ月ほど前に「ニーチェの星の友情」という言葉を調べていて、茂木健一郎さんのブログに行き当たった。それがなかなかおもしろい。そこに数日前、茂木さんが自分の髪の毛は自分で適当にハサミで切っていることが書いてあって笑ってしまった。そういうヘアスタイルだったのか・・・。でも彼にはほかのヘアスタイルは似合わないような気がする。
私が最初に「星の友情」という言葉を見かけたのは、まどかさんの「チケットの行き先違う夜長かな」という2009年10月の俳句の解説だった。有名な言葉らしいが(ニーチェはワグナーと親交が深かったが、ワグナーが領主をパトロンに音楽を創り始めた頃から疎遠になってしまった。後にニーチェがワグナーとの友情を振り返って書いたものの中にその言葉がある。著書は「悦ばしき知識」)私は知らなかった。
茂木さんのブログにあった「星の友情」は禅僧、南直哉さんとの友情についての記事だ。
南直哉さんと私は「星の友情」
ニーチェの「悦ばしき知識」にあるように、
お互いに遠くに相手の姿を認め合いながら
再び相まみえるまで人生という
虚空の中を流れていく (茂木さんの2009・3月のBlogより)
今度は数日前、茂木さんのブログで、彼が黛まどかさんの湯河原の句会に参加されていることを知った。「嵐樹」という俳号を考えて行ったのに、「天保丼」という俳号を賜ったとか・・・(笑)
まどかさんの俳句だよりはもう3年ほど前から読んでいる。それが「星の友情」という言葉を介して茂木さんとつながっていたのを発見してちょっと嬉しい。
茂木さんのブログは「クオリア日記」
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/
「クオリア」とは感覚の持つ質感という意味らしいが、これをキーワードとして脳と心の関係を研究されているらしい。私には辞書が必要だけれど、英文のエッセイもとてもおもしろい。茂木さんの子供時代の記憶やエピソードを題材に書かれている記事が多く、楽しませてもらえる。
付 ニーチェの「悦ばしき知識」の中から
「星の友情。──われわれは友達であったが、互いに疎遠になってしまった。けれど、そうなるべきが当然だったのであり、それを互いに恥じるかのように隠し合ったり晦ましあったりしようとは思わない。われわれは、それぞれの目的地と航路とをもっている二艘の船である。もしかしたらわれわれは、すれ違うことがあるかもしれないし、かつてそうだったように相共に祝祭を寿ぐことがありもしよう、──あのときは、この勇ましい船どもは一つの港のうちに一つの太陽の下に安らかに横たわっていて、すでにもうその目的地に着いたように、そして同一の目的地をめざしていたもののように見えたかもしれない。しかしやがて、われわれの使命の全能の力が、ふたたびわれわれを分かれ分かれに異なった海洋と地帯へと駆り立てた。そして、おそらくわれわれは、またと相逢うことがないであろう──万が一、相逢うことがあるとしても、もう互いを見知ってはいないであろう。さまざまの海洋と太陽が、われわれを別な者に変えてしまっているのだ! われわれが互いに疎遠となるしかなかったということ、それはわれわれの上に臨む法則なのだ! まさにこのことによって、われわれはまた、互いに一そう尊敬し合える者となるべきである! まさにこのことによって、われわれの過ぎし日の友情の思い出が、一そう聖なるものとなるべきである! おそらくは、われわれのまことにさまざまな道筋や目標が、ささやかな道程として包みこまれるような、巨大な目に見えぬ曲線と星辰軌道といったものが存在するのだ!──こういう思想にまで、われわれは自分を高めようではないか! だが、あの崇高な可能性の意味での友人以上のものでありうるには、われわれの人生はあまりにも短く、われわれの視力はあまりにも乏しい。──されば、われわれは、互いに地上での敵であらざるをえないにしても、われわれの星の友情を信じよう。」
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