2009・3・11
東 明雅 著 〔岩波新書〕
前回の句会の折、○さんが「短歌には恋の歌が多いけれど、俳句にはあまりないですね。」と言われた。私も以前からそんなことを考えていて、(でもまどかさんの俳句にはけっこうあったなあ。)リサイクル図書をもらいに行った時この本のタイトルが気になって、すぐ手にとった。なんだか忙しい日が続き、なかなか読めなかったのだが、最近やっと読むことができた。まず、本の扉に書かれている文章が興味をそそる。
「閑寂の詩人と呼ばれる芭蕉は、同時に恋の句を数多く残した濃艶の詩人でもあった。・・・・・・」
ただし、我々が今「俳句」といっているのは「俳諧連歌」の発句のことで、芭蕉は発句よりも連句〔俳諧〕に自信を有していたというわけで、この本に出てくる芭蕉の恋句はすべて、連句のことである。著者は、芭蕉が晩年近くに出かけた旅「奥の細道」〔1689年3月から約半年〕においてさえ、たくさんの恋句を作っていることを挙げ、その後芭蕉の恋句を
1、貞享時代
2、元禄元年・二年
3、元禄三年
4、元禄四~七年
と時代別に拾い出し、その特徴や変化を見ている。私がおもしろかったところを1,2書き出してみる。
◎ 芭蕉の恋句には、「恋のあわれ」がにじみ出ていた。
同時代の西鶴の「好色五人女」の中で庶民階級の年頃の女性が自分がどんな男にめとられていくのかの不安を抱え、室明神にお願いするという場面がある。西鶴はそこで、「それは違うよ。そんな願いは出雲大社にお願いせよ。」と笑い飛ばしている。そのことを芭蕉は「去来抄」の中で「事は卑俗の上に及ぶとも、懐かしくいひとるべし。」と、批判している。
芭蕉たちが、同じく庶民階級のそんな娘の不安を詠んだ句は、
黒木ほすべき 谷かげの小屋
たがよめと 身をやまかせむ 物思い 〔芭蕉〕
あらのの百合に 泪かけつつ
と、とても美しい。卑俗のことを題材にしても「あわれ」を描くのである。
○ 「奥の細道」の中で、4月3日那須野、黒羽の翠桃の家で開かれた俳諧
宮に召されし うき名 はずかし (曽良)
手枕に ほそき肱(かいな)を さしいれて 〔芭蕉〕
これだけ露骨に閨房における若い女性の肉体を描いていながら、いやらしい感じはみじんもない。その理由はこの句が興味本位に好色的に描かれているわけでなく、やはり恋のあわれを描いているからだ。
○ 芭蕉は遊里のことを含め、社会のあらゆる面に精通していたようで、それは彼が「俳諧師」として大成した要素の一つでもある。
餅二かさね えにしそふ帯
吉原の土手に 子日(ねのひ)の松ひかん (芭蕉)
遊里の題材を取り上げる場合、その取り上げ方が極めてあざやかで洗練されている。
○ 俳諧の中では、源氏物語など王朝文学の場面から心情を推察した句がつくられたりもした。
足駄はかせぬ 雨のあけぼの (越人)
きぬぎぬの あまりかぼそく あてやかに (芭蕉)
風ひきたまふ こゑのうつくし (越人)
(現代語訳と解説)
後朝(きぬぎぬ)の別れに女君があまりにもかぼそく、またあてやかであるのに惹かされて男は降る雨の中を帰る足駄をはくことができない。風は風邪で、前句の「あまりかぼそく」から病体を付けたのである。前句だけでもその女性が高貴の女性らしい表現として十分であるが、この付句の「風ひきたまふ」という鄭重な表現によってますます王朝物語の中の姫君となる。〔中略〕後朝の別れに男は風邪をひかれたかぼそくあてやかな姫君の体を気遣い、その初めて聞く風邪声に以外な魅力、抱きしめたいようないとしさを感じるのである。芭蕉の恋句の付合の中でも最も艶美なものの一つであろう。
起きもせで きき知る匂ひ おそろしき 〔東睡〕
乱れて鬢の 汗ぬぐい居る (芭蕉)
「阿羅野」時代の芭蕉の恋句の多くは、濃厚な王朝文学の影響のもとにある浪漫的な香気の高いもの。
○ その他
さまざまに 品かはりたる 恋をして (凡兆)
浮世の果ては 皆小町なり 〔芭蕉〕
人生無常 ・・・一切象徴。 芭蕉の恋句は最晩年になると少なくなり、「軽み」にその冴えを発揮するようになった。
「俳句」という語には、親しみがあっても「俳諧」というのは、文学史の中の一語に過ぎなかったが、この本には「俳諧」がどのような約束に基づいてどのように展開されるものなのかもわかりやすく解説されている。我々にとって遠い巨星のような芭蕉にちょっと親近感も持て、さらにその才能の豊かさに驚かされる一冊である。
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