懐かしの京都

紅葉の異変

2008・12・2

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(2008京都仁和寺の紅葉・・・S君撮影)

昨日、何気なく見ていたテレビで京都の龍谷大学の増田啓子さんが「紅葉の様子は地球環境の指標になる」として京都の紅葉を長年定点観測されてきた結果を話されていたのが耳にとまった。紅葉は一つは寒さ、もう一つは水分が十分でないと美しく色づかないそうだが、最近は10度以下になる日数が少なく、以前のように美しい紅葉が見られなくなったというのだ。2001年と2007年の定点観測の写真が出ていたが、一目瞭然の結果だった。

紅葉の名所、東福寺では以前から悩んでいろいろ工夫を重ねてこられたようだ。木に水分が十分行くように、苔を根元にはりめぐらせたり、勾配の部分に石段を設け雨水が木の方に流れるようにしたりという具合だ。数年前、ちょうど紅葉の時期に東福寺を訪れたことがあったが、あの目も覚めるような鮮やかな紅葉はそんな努力の賜物だったのかと思い至った。

我が家でも、5年程前、越してきたときに植わっていたもみじがあまり美しく色づかないというので、新しい木に植え替えた。その年の秋にはけっこう美しい色を見せてくれたが、次の年は少し黄色くなったかと思ったら今度はすぐ茶色になってしまいがっかりした。土が悪いのかという考えも出たが、そのまた次の年には、今までになく真っ赤に色づきびっくりしたのだ。気温や水分などの関係はあまりよく知らなかったが、なんとなく「寒い日が多かったから・・・」という話で落ち着いていた。これからもうちょっとその因果関係をしっかり見ていきたい。

「京都の風景」を発信してくれている友人の今年の紅葉の写真は、どれもとてもきれいだ。この写真を見る限り、まだまだ大丈夫という気もするが、地球環境の指標になるときくと、ますますいつまでもこの鮮やかな紅葉が見られるようにと願わずにはいられない。0amida_2 04290870

(写真は上・阿弥陀寺、下はニ尊院・・・S君撮影)

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京都 思い出のさくら散策

2008・4・16

306070_3    東京に来てからもう40年以上たったので、京都で暮らした年月の2倍にもなる。東京が嫌いなわけではないけれど、年齢を重ねるにつれ、子供時代を過ごし、祖父母、父母、伯父、伯母、従姉妹たち、友人たちとの思い出がたくさんある京都がとても懐かしく思い出される。今京都に住んでいるのは、従兄だけでそれも宇治の御蔵山と、ずっと南の方なのだ。ほかは、大阪や滋賀県に引っ越したので、京都を訪ねることは、ほとんどなくなってしまっていた。

ところが、2年前、ふとしたきっかけで、小学校3年生のクラスで一緒だった幼なじみのS君が「京都の風景」という写真のHPを開かれていることを知り、ふふ、50年ぶりにメールをした。S君は、私が小3まで住んでいた衣笠山のすぐふもと、龍安寺の近くに、今も住んでおられ、毎日のようにドッジボールや鬼ごっこをした仲間をちゃんと覚えていてくれたのだ。以来毎週末に更新される「京都の風景」で、季節ごとの旬な京都を楽しませてもらっている。「ああ・・・ここ、ここ」と懐かしい場所もあるし、私が知らなかった京都の風景もたくさんある。居ながらにして京都NOWを堪能させてもらっているのだ.

「京都の風景」http://www.geisya.or.jp/~akios/Kyoto.index.htm

今回はたくさんの美しい桜の写真の中から、私の思い出が蘇える写真をお借りして紹介させていただいた。

嵐山

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こkここは、懐かしい場所だ。まだ小学校に上がる前から、嵐山にはよく行った。ちょうど、渡月橋が見えるこのあたりで、中洲に渡るため父が私を抱いて流れの速い川に足を踏み入れる。怖がりの私は音を立てて流れる白い波がおそろしく、平然としている弟を前に大声で泣いた。ちょうど桜の季節・・・水は冷たくて水量も多かったように思う。その流れに桜の花びらが渦巻くように飲まれていた。ここからの景色は秋も美しいが、桜の季節には、いよいよ嵐山始動という元気が湧いて来る場所だ。

平安神宮

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こここの一枚はとてもお気に入り。東山魁夷さんがここに立ったら、きっとすぐ絵筆を取られたことであろう。まるで絵のような一枚だ。平安神宮には、近くに岡崎運動公園があったので、よく行った。ソフトボールの試合もいつもそこでやっていた。だからあの大鳥居はお馴染みだったけれど、庭園に入ったのは、義母と二人で散策したあのときが初めてだった。やっぱり枝垂れ桜がきれいに咲いていた。こんなに美しい庭があったのか・・・と驚いた。

白川

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3、

しし

白 

  

   私の住んでいたのは、西北だったので、このあたりには、あまり土地勘がない。でも、洋裁をやっていた叔母に、できあがった洋服を届けるようにと知恩院さんの近くによくお使いを頼まれた。おだちんをもらうのが嬉しくてはりきって出かけた。多分小学校高学年の頃だ。帰りにちょっと知らない場所を歩き、冒険する。このあたりは、なんかちょっと粋な雰囲気なのだ。小さなきれいな川の橋を渡るのも楽しみ。流れは結構速く、水もきれいだ。「紙屋川もこんな川やったらいいのに・・・」桜が咲いていたかどうか、記憶はないが、伸ばせば手の届くところに陽の光を受けて流れる白川はよく覚えている。

龍安寺の池

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龍安寺は、学区域だったので、遊び場でもあり、学校からよく写生に連れて行ってもらった。もちろん、外庭の方だ。中に小さな島のある池の名前が「鏡容池」というのは、最近S君に教えてもらったことで、当時は名前も知らず、「龍安寺の池」だった。この写真もとても好きだ。背景に写っているのは、見慣れた懐かしい山・・・当時はこんな素敵なロケーションで山を見たことはなかったけれど、この山を駆け巡った思い出が蘇える一枚だ。

平野神社

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5、ここは通っていた小学校のすぐ隣の神社だ。桜のほかに大きな椿の木が何本もあって、木登りをして遊んだ場所。平野神社がさくらで有名な場所だったことを知ったのは、オーストラリアの友人の部屋にかけてあったカレンダーを見たときだった。この写真とかなり似ていて、一目見て、「あれ?」と思い、近づくとやっぱり「平野神社」と書かれていた。 

鴨川

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6、

この写真もお気に入り。なんて心があたたかくなる情景だろう。明るい太陽の恵みの中で、川はおだやかにせせらぎ、歌い、桜はのんびり風に揺らぐ。ひなたぼっこの親子は、きっと幸せな家族、足を投げ出して川面を眺める少女はいつかの自分のようにも思える。この写真を撮るべく、カメラを向けているS君のあたたかさも伝わってくる。

醍醐寺

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ここは、私をとても可愛がってくれた伯母とよく行った場所だ。最後に行ったのは、桜の季節・・・。山門をくぐり、桜吹雪を浴びながら緋毛氈でお茶をいただいたあの日がまるで昨日のことのようだ。東京から京都に戻り、宇治で暮らしていた伯母は、あのとき咲いていた山吹を指差して「山吹のいっぱい咲いているお寺にお墓を買ったから、私が死んだら必ず来てや・・・」と言った。今は山吹の琴坂を登った興聖寺、道元開祖の寺に眠っている。

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年越しの楽しみ

2007・12・30

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今年もあと残すところ2日になってしまった。おせちの準備をしながら考える。まあ、いろいろなことがあったけれど、こうして無事新しい年を迎えられそうなことは、幸せなこと、感謝しなければ・・・と。

子ども時代、京都の冬は寒かったけれど、私はなんとなく好きだった。それは、年の暮れになると、北野天神に続く一条通りの商店街が活気づき、父といっしょにお正月料理の材料や注連縄、お飾りなどを買いに出かけるのがとても楽しかったからだ。また大晦日には年越しそばを食べたあと、祇園の八坂神社におけらまいりに出かけるのが恒例になっていて、なんだか心がはずみ、うきうきとした気分になれた。父は家庭的な人ではなかったけれど、そういう伝統的な行事に関しては、なんか生真面目に実行する人だった。きっと自分が子ども時代、そのようなことを重んじる家に育ったから、そうしなければならないと思い込んでいたのかもしれない。またあの頃は世間がみんなそうだったのかも知れない。

私が高校生になって、もう父といっしょに行動しなくなるまで、そのような年の暮れ、お正月の風習は続いていたように思う。

年の瀬の活気のある店々、威勢のいい売り声、大勢の人がまた顔を輝かせて店をのぞきながら渡り歩いていく賑わいはみょうに懐かしい。長い年月が経過して、もう父もこの世にいないのに、寒い冬の風の中にぽうっと温かい思い出が残っているこの季節が私はとても好きなのだ。

今年1年、このBlogを訪ねてくださった皆様、ありがとうございました。どうぞよいお年をお迎え下さい。そしてまた来年もよろしくお願い致します。

              Kaz    Nonより

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地蔵盆の思い出

2007・8・23

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今年の夏にも猛暑がやってきた。家にいるとクーラーの中でわからないが、外出すると、もう炎天下、「ああ、昔の夏だ・・・」と感じる。京都の夏は格別暑かった。

その猛烈な暑さは、お盆がすぎ、大文字の送り火がともる頃、少しやわらいでくる。そして数々の楽しい夏の行事の最後をしめくくるのが、地蔵盆だった。

これは、京都、大阪、滋賀など、関西地方にある祭事で、関東地方には、ほとんどないらしい。〈地蔵菩薩に対する信仰の歴史の違いとか・・・〉東京にきて10年位たった頃、ちょうど地蔵盆の時期に帰郷して、私の子どもの頃と変わりなく、近所のお地蔵さんに子ども達が集まって楽しげだったのが、とても懐かしかった。

 私の記憶にある地蔵盆は、小学校の456年生くらい。近所に道路に面してちょうど集会ができるような大きなお部屋のあるおうちがあって、地蔵盆は、いつもそのN家に集まった。お部屋の奥には真新しいまえかけをしたお地蔵さまが置かれ、ぶどうや桃、おまんじゅうなどお供え物がたくさん飾ってあった。数日前から各戸に配られたおやつの券や福引の券を持って、近所の子ども達が集まってくる。おやつをいただくとみんなでいろんなことをして遊んだ。またその広いお部屋に大きな数珠が持ち込まれ、子どもたちは輪になって座り、数珠回しをした。お坊さんが、お話をしてくれるときもあった。

 地蔵盆は大体82324日頃だったように思うが、私の住んでいた地域では、子どものど自慢大会というのがあった。ほとんど全員が出場するのだが、歌う人はマイクの備え付けられた床机の上に立って歌った。音楽大好きの私は、「♪~うの花の におう垣根に ほととぎす はやもきなきて~♪」と自慢の声〈笑〉で歌って拍手をもらい、喜んでいたら、弟は「♪~粋な黒塀、見越しの松に~あだな姿の洗い髪 死んだはずだよ お富さん~♪」とボーイソプラノで音程もばっちり、聴いていた人がびっくりするほど上手に歌い、私がびっくりした。いつもおとなしく、私のかげで、じっとしていて、いじめられたら「お姉ちゃんがやっつけてやる!」とかばってばかりいた弟の全く違う面を見て、驚いてしまったのと、そういう明るい茶目っ気を持っていたことがとても嬉しかったのを憶えている。

 とにかく、この地蔵盆のときは、遠慮なく大騒ぎで遊べた。集まってくる子ども達は、みんなにこにこと嬉しそうだったし、ふだんはお手伝いなどが忙しい子もこのときばかりは、文句も言われず、まさに子ども天国の二日間だった。

 ずっとあとになって、この楽しい地蔵盆を思い出すときに、一つ、とても気になることがある。それは、地蔵盆にいつもお部屋を提供してくれていたN家には、私よりずっと年上のお姉ちゃんとちょっと年上のお兄ちゃんがいたのだが、そのお兄ちゃんが中学生になってまもなく、亡くなってしまったのだ。近所のおばさんたちが、鼻血が止まらなかったといっていたから、今考えると白血病だったのかも知れない。私が人が死ぬということを初めて知った出来事でもあった。お地蔵さんは、幼くして死んだ子どもが三途の川を渡れず、賽の河原で石を積んでいるのを助けて回る菩薩なのだとか・・・おにいちゃんがいなくなってからもやはり地蔵盆はN家の部屋で行なわれていたが、おばさんは、どんな気持ちだっとのかと思うととても悲しい。

最近「今でもやっているのですか?」と京都にいる友人に尋ねたら、「やっているけど、子どもが少なくなって、さびしい。昔は楽しかったね。」と書いてあった。関東では、ほとんど見かけない風習だけれど、私には親たちの子どもへの思いが感じられるとてもいい行事に思える。

数珠回し (「京都の地蔵盆」より) Ji01_3  

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京都・五山の送り火

2007・8・17

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(2007・8・16 「京都新聞」サイトより)

昨夜、16日、NHKスペシャルでこの送り火の実況中継を放映していて、とても懐かしくじっと見ていた。親友の母校、洛北高校の屋上から眺めながらの中継だった。

先日アコママさんがこの送り火のことをBlogに書かれていて、興味深く読ませていただいた。知らなかったこともいくつかあって、とても勉強になった。

http://0628.cocolog-nifty.com/

彼女とは小学校同級で、住んでいた場所も近くだったので、共通な思い出はたくさんあるのだが、私は4年生から衣笠より少し南の大将軍という場所にある祖母の家で育ったので、そこから見た大文字が記憶にはっきりと残っている。

東山の大文字が点く8時少し前になると、祖母が「そろそろえ。見にいこか・・・」と時計を眺めながら言う。家からは見えないので、23分歩いて西大路通りの電車道まで行くのだ。広い通りに出るとまっすぐ正面に東山、如意が嶽の大文字が見える。8時きっかり、一番に点火されると、あたりから「おおう・・・」と歓声が起こり、祖母のように手を合わせている人たちもいる。送り火の深い意味もよくわかっていなかったが、とにかく、おごそかな雰囲気に祈りたいような気持ちになった。続いて妙法が点くのだが、そこからは見えず、すぐ近くの左大文字が赤々と燃え出す。これは、煙まで見えて元気いっぱいの火だ。ふだんいつも、山肌に「大」の字が見えているので、「ああ、あそこに火が点いたんだ・・・」と親しみが湧く。そこから少し西の公園に行くと舟形の一部と鳥居の一部が見えた。鳥居の火が弱くなると、今年の大文字もおわり・・・ちょっと淋しくなる。

「おじいちゃんも、帰ってしまわはったなあ。」祖母ととぼとぼ家路につく。

私が子どもの頃、一度も見られなかった「妙法」をすぐ間近に見られる機会ができた。今、オーストラリアに住んでいる大学時代の親友の家が松ヶ崎にあって、「今夜の大文字はうちにいらっしゃいよ。」と呼んでくれたのだ。その夜の大文字は見る側でなく点火する側だった。家のすぐ裏山で、みんなの準備の大変さ、掛け声や火の熱さまで伝わってくる。点火したとき、文字ははっきり読めなかったが、雰囲気で「大成功!」と拍手や安堵のため息が伝わってきた。

息子達が小学生の頃、父もいっしょに大文字を見た。たしか賀茂川の河原からだった。東京にはないこの送り火をどんな感動をもって見るかと期待していたのだが、息子達にはじいじの買ってくれた夜光の腕輪の方が魅力的だったようだと私の目には映った。

しかし、この送り火は、年齢を重ねて初めて、生きとし生ける人間の願い、祈りを込めた壮大かつ、ロマンのある祭事だとわかってくるものかも知れない。

中継時の解説者、山折哲雄さんの「京都の地形が可能にした風習、山の向こうは極楽浄土で、人間は真っ暗な闇の中で、魂の存在を実感できる。」「日本人の無常観は、実に明るいのです。日常の生活のすぐ裏側に浄土を思い描ける。」などという言葉が心に残った。送り火がさかんに燃えている時間にも京都の町には多くの灯火がちらついている。しかし、電気のない時代、暗闇の中に浮かび上がったこれらの火は、まさに「死者の魂を送り届ける火」であったのだと気がついた。

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2007年祇園祭

2007・7・18

 今年の祇園祭の山鉾巡行は曇り空のもと、約14万人の人々が見守る中、盛大に行なわれたそうです。鉾に乗っている人、引く人々の真剣な顔、お稚児さんの緊張した姿、見物人の興奮したお祭りの雰囲気が伝わってくる写真です。

 撮影は半世紀を経て、ネットで再会した小学校3年生の時の同級生、S君です。G_192370_2

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お便り

祇園祭り、懐かしいです。ほんと!
4枚目の写真は、多分四条河原町交差点で、方向転換の準備をしているところかと思います。うん十年前の、あの頃を思い出しています。
四条河原町所在の勤務先、今阪急デパートですが、そのときは、京都住友ビルで、住友系の会社で、1階:銀行、3階:商事、4階:海上火災、5階:生命保険でした。

祇園祭の日だけ、ビルの屋上を開放、屋上から山鉾巡行を見物できました。山鉾の方向転換は人の知恵と力の壮大さを感じ、7年続けて見た7月17日のことは鮮明に記憶に残っています。
来年は行ってみたいですね。  usako

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祇園祭

Photo_naginata_yoi00_03_3 2007・7・13

今年も祇園祭の季節になった。京都に住んでいたのは22歳までだから、もう東京で暮している年月の方がずっとずっと長い。それなのに私の思い浮かべるお祭りは浅草の祭ではなく、いつまでも京都の祭り・・・。

祇園祭はその中でも一番記憶に残っている。今でも祇園祭と聞くと、あのお囃子の音や大きな長刀鉾や月鉾を見上げていた小さな自分が鮮やかに蘇る。お祭り見物はたいてい祖母と一緒だった。白っぽい着物を着て、巾着袋をさげて、片手に日傘、片手に扇子を持って、汗をかきながら鉾の巡行を待っていた祖母の横顔が思い浮かぶ。しまりやの祖母が帰りにごちそうしてくれた氷金時の甘さも懐かしい。

祇園祭を最後に見たのは、大学4年の夏だった。そのとき、私はもう卒業と同時に東京に行くことが決まっていた。3週間の教育実習が終わって、その仲間が10人ほど宵山見物に連れ出してくれたのだ。

四条通りは、市電〈その頃まだ走っていた!〉の架線が取り払われ、広々としていたが、人があふれかえるような賑わいだった。河原町から烏丸方面に近づくにつれ、お囃子の音が大きくなり、周囲の見物人のテンションもあがってくる。あ、長刀鉾!・・・夜の闇の中、提灯の灯りで、鉾は輝いていた。

Nonはもう、このお祭りを見ることはなかなかできないよ。東京に行ってしまうんだからね。ようく、見ておくといいよ。」

灯りに照らされた友達の顔がみんな私を見てあたたかく笑っていた。(そうだなあ・・・京都しか知らない私がほかの土地で暮らすんだ・・・)ちょっと不安な気持ちがよぎったけれど、この祇園祭をその後何十年も見られなくなるとは、その時、考えていなかった。

友達の言葉はほんとうだった。祇園祭の最高の山場、16日の宵山、17日の山鉾巡行の時期には、仕事がまだ終わらず、帰郷することはできなかったのだ。テレビでコンコンチキチ、コンチキチ~と懐かしいお囃子を放映しているのをちらっと眺め、あの学生時代最後の夏に四条通に繰り出した仲間の言葉を何度も思い出した。

しかし、考えてみると、私にとっての祇園祭は、実際に見ることができなくなっただけ、心の奥深くで懐かしい風景として残っているのかも知れない。

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曼殊院

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5・2

 京都駅からJR奈良線で東福寺へ、そこで京阪電車に乗り換える。東福寺の駅は昔と同じように小さな駅だ。でも京阪電車は昔の終点三条京阪からさらに北へ出町柳まで延びている。出町柳は懐かしい駅。学生時代、松ヶ崎に住んでいた親友が叡電に乗るので、高野川と賀茂川が合流するのを眺めながらいつまでも立ち話をしていた。あんなによく話すことがあったものだと今はあきれてしまうほど。今その友は外国で暮している。きっと京都の風景を懐かしく思い起こすときがあるだろう。

 今日はやはり大学時代の友人と出町柳で待ち合わせ、一緒に曼殊院に行くことになった。修学院離宮には、2回行く機会があったが、すぐ近くの曼殊院は訪ねたことがなかった。

 叡電に乗って修学院で降り、東へ少しいくと白川通りに出る。白川通りからさらに東の方向へ細い道に入っていくと、道はゆるやかに曲がりながらだんだん勾配がきつくなってくる。今日は天候もよくないので人通りは少なく、やわらかな緑に包まれた家々が点在するのんびりとした風景に心癒される気分だ。坂道が続くので少し息をきらしながら歩いて行くと「詩仙堂へ」という案内板が右に入る道の脇に立っていた。

「詩仙堂!」学生時代何度も訪ねた場所・・・「こんなところにまでしょっちゅう来てたんやね。」「あははは・・・坂道がきつい、年をとったんや」そしてまた一段と急な坂道になってやっと曼殊院の境内にたどり着いた。

ふう・・お庭を見る前に、一休み。お抹茶とお菓子をいただきながら、ずっと西側につらなる山々を眺めた。上空では風が強いのか、ときおり青空も垣間見られ、緑の木々のむこうには山の姿がはっきりと見えた。曼殊院は最澄が創建者だそうだが江戸時代に現在の地に移され、良尚親王が天台座主となり入寺された門跡寺院だそうだ。霧島つつじや紅葉で有名だが、今は庭も背景の林もすべて新緑につつまれている。遠州好みの枯山水とか庭の砂は水の流れを表わしているようで鶴島と亀島が配され、小書院は水面を遡る屋形船に見立てられているらしい。鶴島の真ん中に樹齢400年の五葉松が見事に枝をはり、その根元にキリシタン灯篭が置かれている。親王が入寺された1656年にはもうすでに島原の乱も終わり、キリシタン禁令がしかれていたのに・・・なぜこんなのがあったのかとちょっと疑問に思った。

 縁に腰をおろして眺めていると日常の時間は遠くへ飛んでしまうような気がする。帰りは学生時代よく乗っていた京阪電車。窓からの風景はさすが古都、昔のままの家並みも多くあり、懐かしい風景だ。40年の時間を超えてこうして同じ空間に身をおくことができた不思議に感動した一日だった。

 土地も人も離れてみて、そのよさを再発見する。もし私がずっと京都に住み続けていたら、こんな感動を覚えなかったかもしれない。

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仏さまとも一期一会

07sakura_010_2 2007・5・25

帰ってきました。私はこちらには親戚が誰も住んでいません。母も弟も叔母も従姉もみんな関西です。それで年に2、3回は関西に帰ってあちこち訪ね歩きます。今回の誕生日の5月21日は従姉や叔母と楽しく過ごすことができました。その合間を縫って、まだ訪ねたことがなかったお寺を回っています。

今回は「空海の風景」で興味を持った高野山に行くつもりでしたが、その日は雨模様、雷雨も発生するとかで、急遽京都に変更しました。京都は以前「今になっておもしろい東寺」で書きましたが、京都にいながら一度も足を運んだことがなかった東寺を訪ねました。

京都駅から近鉄奈良線で一駅、数人が降りるだけの小さな駅。九条通りを西に行くとあの大きな五重塔が見えてきました。近づくとやっぱり大きく黒々と聳え立ち、迫力のある塔です。南大門から境内に入ると若々しい緑に輝く楠の木々が目に入ってきました。

今日の一番のめあては講堂の立体曼陀羅、21体の仏さまと会うことです。「現在ある東寺の伽藍で空海の時代のものは、何一つ残っていないが唯一、講堂の国宝諸尊が大師の理想を今日に伝えているのみである。」と書いてあったので、わくわくしました。講堂は1491年の再建らしいですが、北側にはやはり楠が枝を茂らせ、明るい緑の中にどっしりと建っていました。 

やや薄暗い堂の中に入ると一段高い須弥壇の上にたくさんの仏像が立っています。「これが、立体曼陀羅・・・」中心の大日如来はあと数センチで天井に届くほどの大きさ、この五智如来の東には五大菩薩、西には五大明王、それぞれの左右に多聞天、持国天、梵天、広目天、増長天、帝釈天・・・合計21体!

それぞれの詳しい仏さまの意味はよくわかりませんが、生きとし生ける人間の悲願がひしひしと感じられ、迫力がありました。とてもハンサムな帝釈天という仏さまはインドの神だそうで、天界の聖戦士とか、象に跨っておられ、これは密教独特の形だそうです。

 次に金堂に入りました。ここには薬師如来坐像そして左右に日光菩薩立像と月光菩薩立像、ここは講堂とは違った静寂さがあり、心が澄み通るような気分になれます。しかし、じっと見ているとこの薬師如来坐像もすごい・・・やはり3メートル近くで天井に届くようなな光背に彫られた七つの仏さま、台座の周囲にも12体が彫られていてそれぞれ違う姿をしています。ヨーロッパの教会でも細かな彫刻をたくさん見ましたが、人間というものは、すごいものだ・・・と感心してしまいます。

 午後は友人と待ち合わせ、もう一つのお寺を訪ねる予定、東寺にはまたもう一度来なければ・・・と後ろ髪を引かれる思いで京都駅に向かいました。「身は高野、心は東寺におさめおく・・・」

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マイ哲学の道?

Akatutuji_1  2007・4・26

ふるさと京都にある「哲学の道」・・・西田幾多郎は、疎水分流の道を好んで歩いたそうだ。彼は和服の着流し、下駄か雪駄ばきでステッキを持ち、小急ぎにセカセカと歩き、少し立ち止まっては考えにふけり、また歩き出すといった風だったらしい。現在は、銀閣寺から法然院を通り、熊野若王子神社下まで疎水べりに、春は桜、秋には見事な紅葉と観光スポットとしてあまりにも有名になっている。私も昔、友人と何度かこの道(まだ現在のようにきれいではなかったけれど)を歩いたが、あの頃はおしゃべりに夢中で、哲学、思索のムードではなかった。

ドイツに旅行したときは、ハイデルベルグに一泊したので、朝早く起き出して、これまた3人の友とネッカー川沿いの「哲学者の道」を歩いた。ここは、ゲーテ、ヘーゲル、ヤスパースなどがいつも散歩をした道だそうだ。「ここまできて、「哲学者の道」を歩かないなんてね!」といきおいよく出発し、食事の時間に間に合うようにと息を切らしながら大急ぎで歩いた。対岸には、ハイデルベルグの街並みやお城が見え、景色もいい散歩道だったのだが、これまた哲学・・・というにはほど遠い駆け足散歩?だった。

やっぱり散歩は一人がいい。ゆっくりがいい。誰かと歩いていると考えごとができない。家に閉じこもってじっと考えごとをしていても、解決しないときには、とにかく外に出て歩き始める。不思議なことに歩いていると解決の糸口が見つかったり、いいアイデアが浮かんだりしてくるのだ。木々が風に吹かれる音を頭のすみで聞きながら、大好きなさつきの咲く道を歩く。たまに西田幾多郎のように立ち止まって空を見上げる。考えている内容は天と地ほど違うけれど。〈笑〉

「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」と幾多郎先生もおっしゃっている。

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