懐かしの京都

紅葉の異変

2008・12・2

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(2008京都仁和寺の紅葉・・・S君撮影)

昨日、何気なく見ていたテレビで京都の龍谷大学の増田啓子さんが「紅葉の様子は地球環境の指標になる」として京都の紅葉を長年定点観測されてきた結果を話されていたのが耳にとまった。紅葉は一つは寒さ、もう一つは水分が十分でないと美しく色づかないそうだが、最近は10度以下になる日数が少なく、以前のように美しい紅葉が見られなくなったというのだ。2001年と2007年の定点観測の写真が出ていたが、一目瞭然の結果だった。

紅葉の名所、東福寺では以前から悩んでいろいろ工夫を重ねてこられたようだ。木に水分が十分行くように、苔を根元にはりめぐらせたり、勾配の部分に石段を設け雨水が木の方に流れるようにしたりという具合だ。数年前、ちょうど紅葉の時期に東福寺を訪れたことがあったが、あの目も覚めるような鮮やかな紅葉はそんな努力の賜物だったのかと思い至った。

我が家でも、5年程前、越してきたときに植わっていたもみじがあまり美しく色づかないというので、新しい木に植え替えた。その年の秋にはけっこう美しい色を見せてくれたが、次の年は少し黄色くなったかと思ったら今度はすぐ茶色になってしまいがっかりした。土が悪いのかという考えも出たが、そのまた次の年には、今までになく真っ赤に色づきびっくりしたのだ。気温や水分などの関係はあまりよく知らなかったが、なんとなく「寒い日が多かったから・・・」という話で落ち着いていた。これからもうちょっとその因果関係をしっかり見ていきたい。

「京都の風景」を発信してくれている友人の今年の紅葉の写真は、どれもとてもきれいだ。この写真を見る限り、まだまだ大丈夫という気もするが、地球環境の指標になるときくと、ますますいつまでもこの鮮やかな紅葉が見られるようにと願わずにはいられない。0amida_2 04290870

(写真は上・阿弥陀寺、下はニ尊院・・・S君撮影)

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京都 思い出のさくら散策

2008・4・16

306070_3    東京に来てからもう40年以上たったので、京都で暮らした年月の2倍にもなる。東京が嫌いなわけではないけれど、年齢を重ねるにつれ、子供時代を過ごし、祖父母、父母、伯父、伯母、従姉妹たち、友人たちとの思い出がたくさんある京都がとても懐かしく思い出される。今京都に住んでいるのは、従兄だけでそれも宇治の御蔵山と、ずっと南の方なのだ。ほかは、大阪や滋賀県に引っ越したので、京都を訪ねることは、ほとんどなくなってしまっていた。

ところが、2年前、ふとしたきっかけで、小学校3年生のクラスで一緒だった幼なじみのS君が「京都の風景」という写真のHPを開かれていることを知り、ふふ、50年ぶりにメールをした。S君は、私が小3まで住んでいた衣笠山のすぐふもと、龍安寺の近くに、今も住んでおられ、毎日のようにドッジボールや鬼ごっこをした仲間をちゃんと覚えていてくれたのだ。以来毎週末に更新される「京都の風景」で、季節ごとの旬な京都を楽しませてもらっている。「ああ・・・ここ、ここ」と懐かしい場所もあるし、私が知らなかった京都の風景もたくさんある。居ながらにして京都NOWを堪能させてもらっているのだ.

「京都の風景」http://www.geisya.or.jp/~akios/Kyoto.index.htm

今回はたくさんの美しい桜の写真の中から、私の思い出が蘇える写真をお借りして紹介させていただいた。

嵐山

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1、

こkここは、懐かしい場所だ。まだ小学校に上がる前から、嵐山にはよく行った。ちょうど、渡月橋が見えるこのあたりで、中洲に渡るため父が私を抱いて流れの速い川に足を踏み入れる。怖がりの私は音を立てて流れる白い波がおそろしく、平然としている弟を前に大声で泣いた。ちょうど桜の季節・・・水は冷たくて水量も多かったように思う。その流れに桜の花びらが渦巻くように飲まれていた。ここからの景色は秋も美しいが、桜の季節には、いよいよ嵐山始動という元気が湧いて来る場所だ。

平安神宮

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こここの一枚はとてもお気に入り。東山魁夷さんがここに立ったら、きっとすぐ絵筆を取られたことであろう。まるで絵のような一枚だ。平安神宮には、近くに岡崎運動公園があったので、よく行った。ソフトボールの試合もいつもそこでやっていた。だからあの大鳥居はお馴染みだったけれど、庭園に入ったのは、義母と二人で散策したあのときが初めてだった。やっぱり枝垂れ桜がきれいに咲いていた。こんなに美しい庭があったのか・・・と驚いた。

白川

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3、

しし

白 

  

   私の住んでいたのは、西北だったので、このあたりには、あまり土地勘がない。でも、洋裁をやっていた叔母に、できあがった洋服を届けるようにと知恩院さんの近くによくお使いを頼まれた。おだちんをもらうのが嬉しくてはりきって出かけた。多分小学校高学年の頃だ。帰りにちょっと知らない場所を歩き、冒険する。このあたりは、なんかちょっと粋な雰囲気なのだ。小さなきれいな川の橋を渡るのも楽しみ。流れは結構速く、水もきれいだ。「紙屋川もこんな川やったらいいのに・・・」桜が咲いていたかどうか、記憶はないが、伸ばせば手の届くところに陽の光を受けて流れる白川はよく覚えている。

龍安寺の池

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龍安寺は、学区域だったので、遊び場でもあり、学校からよく写生に連れて行ってもらった。もちろん、外庭の方だ。中に小さな島のある池の名前が「鏡容池」というのは、最近S君に教えてもらったことで、当時は名前も知らず、「龍安寺の池」だった。この写真もとても好きだ。背景に写っているのは、見慣れた懐かしい山・・・当時はこんな素敵なロケーションで山を見たことはなかったけれど、この山を駆け巡った思い出が蘇える一枚だ。

平野神社

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5、ここは通っていた小学校のすぐ隣の神社だ。桜のほかに大きな椿の木が何本もあって、木登りをして遊んだ場所。平野神社がさくらで有名な場所だったことを知ったのは、オーストラリアの友人の部屋にかけてあったカレンダーを見たときだった。この写真とかなり似ていて、一目見て、「あれ?」と思い、近づくとやっぱり「平野神社」と書かれていた。 

鴨川

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6、

この写真もお気に入り。なんて心があたたかくなる情景だろう。明るい太陽の恵みの中で、川はおだやかにせせらぎ、歌い、桜はのんびり風に揺らぐ。ひなたぼっこの親子は、きっと幸せな家族、足を投げ出して川面を眺める少女はいつかの自分のようにも思える。この写真を撮るべく、カメラを向けているS君のあたたかさも伝わってくる。

醍醐寺

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ここは、私をとても可愛がってくれた伯母とよく行った場所だ。最後に行ったのは、桜の季節・・・。山門をくぐり、桜吹雪を浴びながら緋毛氈でお茶をいただいたあの日がまるで昨日のことのようだ。東京から京都に戻り、宇治で暮らしていた伯母は、あのとき咲いていた山吹を指差して「山吹のいっぱい咲いているお寺にお墓を買ったから、私が死んだら必ず来てや・・・」と言った。今は山吹の琴坂を登った興聖寺、道元開祖の寺に眠っている。

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年越しの楽しみ

2007・12・30

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今年もあと残すところ2日になってしまった。おせちの準備をしながら考える。まあ、いろいろなことがあったけれど、こうして無事新しい年を迎えられそうなことは、幸せなこと、感謝しなければ・・・と。

子ども時代、京都の冬は寒かったけれど、私はなんとなく好きだった。それは、年の暮れになると、北野天神に続く一条通りの商店街が活気づき、父といっしょにお正月料理の材料や注連縄、お飾りなどを買いに出かけるのがとても楽しかったからだ。また大晦日には年越しそばを食べたあと、祇園の八坂神社におけらまいりに出かけるのが恒例になっていて、なんだか心がはずみ、うきうきとした気分になれた。父は家庭的な人ではなかったけれど、そういう伝統的な行事に関しては、なんか生真面目に実行する人だった。きっと自分が子ども時代、そのようなことを重んじる家に育ったから、そうしなければならないと思い込んでいたのかもしれない。またあの頃は世間がみんなそうだったのかも知れない。

私が高校生になって、もう父といっしょに行動しなくなるまで、そのような年の暮れ、お正月の風習は続いていたように思う。

年の瀬の活気のある店々、威勢のいい売り声、大勢の人がまた顔を輝かせて店をのぞきながら渡り歩いていく賑わいはみょうに懐かしい。長い年月が経過して、もう父もこの世にいないのに、寒い冬の風の中にぽうっと温かい思い出が残っているこの季節が私はとても好きなのだ。

今年1年、このBlogを訪ねてくださった皆様、ありがとうございました。どうぞよいお年をお迎え下さい。そしてまた来年もよろしくお願い致します。

              Kaz    Nonより

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地蔵盆の思い出

2007・8・23

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今年の夏にも猛暑がやってきた。家にいるとクーラーの中でわからないが、外出すると、もう炎天下、「ああ、昔の夏だ・・・」と感じる。京都の夏は格別暑かった。

その猛烈な暑さは、お盆がすぎ、大文字の送り火がともる頃、少しやわらいでくる。そして数々の楽しい夏の行事の最後をしめくくるのが、地蔵盆だった。

これは、京都、大阪、滋賀など、関西地方にある祭事で、関東地方には、ほとんどないらしい。〈地蔵菩薩に対する信仰の歴史の違いとか・・・〉東京にきて10年位たった頃、ちょうど地蔵盆の時期に帰郷して、私の子どもの頃と変わりなく、近所のお地蔵さんに子ども達が集まって楽しげだったのが、とても懐かしかった。

 私の記憶にある地蔵盆は、小学校の456年生くらい。近所に道路に面してちょうど集会ができるような大きなお部屋のあるおうちがあって、地蔵盆は、いつもそのN家に集まった。お部屋の奥には真新しいまえかけをしたお地蔵さまが置かれ、ぶどうや桃、おまんじゅうなどお供え物がたくさん飾ってあった。数日前から各戸に配られたおやつの券や福引の券を持って、近所の子ども達が集まってくる。おやつをいただくとみんなでいろんなことをして遊んだ。またその広いお部屋に大きな数珠が持ち込まれ、子どもたちは輪になって座り、数珠回しをした。お坊さんが、お話をしてくれるときもあった。

 地蔵盆は大体82324日頃だったように思うが、私の住んでいた地域では、子どものど自慢大会というのがあった。ほとんど全員が出場するのだが、歌う人はマイクの備え付けられた床机の上に立って歌った。音楽大好きの私は、「♪~うの花の におう垣根に ほととぎす はやもきなきて~♪」と自慢の声〈笑〉で歌って拍手をもらい、喜んでいたら、弟は「♪~粋な黒塀、見越しの松に~あだな姿の洗い髪 死んだはずだよ お富さん~♪」とボーイソプラノで音程もばっちり、聴いていた人がびっくりするほど上手に歌い、私がびっくりした。いつもおとなしく、私のかげで、じっとしていて、いじめられたら「お姉ちゃんがやっつけてやる!」とかばってばかりいた弟の全く違う面を見て、驚いてしまったのと、そういう明るい茶目っ気を持っていたことがとても嬉しかったのを憶えている。

 とにかく、この地蔵盆のときは、遠慮なく大騒ぎで遊べた。集まってくる子ども達は、みんなにこにこと嬉しそうだったし、ふだんはお手伝いなどが忙しい子もこのときばかりは、文句も言われず、まさに子ども天国の二日間だった。

 ずっとあとになって、この楽しい地蔵盆を思い出すときに、一つ、とても気になることがある。それは、地蔵盆にいつもお部屋を提供してくれていたN家には、私よりずっと年上のお姉ちゃんとちょっと年上のお兄ちゃんがいたのだが、そのお兄ちゃんが中学生になってまもなく、亡くなってしまったのだ。近所のおばさんたちが、鼻血が止まらなかったといっていたから、今考えると白血病だったのかも知れない。私が人が死ぬということを初めて知った出来事でもあった。お地蔵さんは、幼くして死んだ子どもが三途の川を渡れず、賽の河原で石を積んでいるのを助けて回る菩薩なのだとか・・・おにいちゃんがいなくなってからもやはり地蔵盆はN家の部屋で行なわれていたが、おばさんは、どんな気持ちだっとのかと思うととても悲しい。

最近「今でもやっているのですか?」と京都にいる友人に尋ねたら、「やっているけど、子どもが少なくなって、さびしい。昔は楽しかったね。」と書いてあった。関東では、ほとんど見かけない風習だけれど、私には親たちの子どもへの思いが感じられるとてもいい行事に思える。

数珠回し (「京都の地蔵盆」より) Ji01_3  

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京都・五山の送り火

2007・8・17

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(2007・8・16 「京都新聞」サイトより)

昨夜、16日、NHKスペシャルでこの送り火の実況中継を放映していて、とても懐かしくじっと見ていた。親友の母校、洛北高校の屋上から眺めながらの中継だった。

先日アコママさんがこの送り火のことをBlogに書かれていて、興味深く読ませていただいた。知らなかったこともいくつかあって、とても勉強になった。

http://0628.cocolog-nifty.com/

彼女とは小学校同級で、住んでいた場所も近くだったので、共通な思い出はたくさんあるのだが、私は4年生から衣笠より少し南の大将軍という場所にある祖母の家で育ったので、そこから見た大文字が記憶にはっきりと残っている。

東山の大文字が点く8時少し前になると、祖母が「そろそろえ。見にいこか・・・」と時計を眺めながら言う。家からは見えないので、23分歩いて西大路通りの電車道まで行くのだ。広い通りに出るとまっすぐ正面に東山、如意が嶽の大文字が見える。8時きっかり、一番に点火されると、あたりから「おおう・・・」と歓声が起こり、祖母のように手を合わせている人たちもいる。送り火の深い意味もよくわかっていなかったが、とにかく、おごそかな雰囲気に祈りたいような気持ちになった。続いて妙法が点くのだが、そこからは見えず、すぐ近くの左大文字が赤々と燃え出す。これは、煙まで見えて元気いっぱいの火だ。ふだんいつも、山肌に「大」の字が見えているので、「ああ、あそこに火が点いたんだ・・・」と親しみが湧く。そこから少し西の公園に行くと舟形の一部と鳥居の一部が見えた。鳥居の火が弱くなると、今年の大文字もおわり・・・ちょっと淋しくなる。

「おじいちゃんも、帰ってしまわはったなあ。」祖母ととぼとぼ家路につく。

私が子どもの頃、一度も見られなかった「妙法」をすぐ間近に見られる機会ができた。今、オーストラリアに住んでいる大学時代の親友の家が松ヶ崎にあって、「今夜の大文字はうちにいらっしゃいよ。」と呼んでくれたのだ。その夜の大文字は見る側でなく点火する側だった。家のすぐ裏山で、みんなの準備の大変さ、掛け声や火の熱さまで伝わってくる。点火したとき、文字ははっきり読めなかったが、雰囲気で「大成功!」と拍手や安堵のため息が伝わってきた。

息子達が小学生の頃、父もいっしょに大文字を見た。たしか賀茂川の河原からだった。東京にはないこの送り火をどんな感動をもって見るかと期待していたのだが、息子達にはじいじの買ってくれた夜光の腕輪の方が魅力的だったようだと私の目には映った。

しかし、この送り火は、年齢を重ねて初めて、生きとし生ける人間の願い、祈りを込めた壮大かつ、ロマンのある祭事だとわかってくるものかも知れない。

中継時の解説者、山折哲雄さんの「京都の地形が可能にした風習、山の向こうは極楽浄土で、人間は真っ暗な闇の中で、魂の存在を実感できる。」「日本人の無常観は、実に明るいのです。日常の生活のすぐ裏側に浄土を思い描ける。」などという言葉が心に残った。送り火がさかんに燃えている時間にも京都の町には多くの灯火がちらついている。しかし、電気のない時代、暗闇の中に浮かび上がったこれらの火は、まさに「死者の魂を送り届ける火」であったのだと気がついた。

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2007年祇園祭

2007・7・18

 今年の祇園祭の山鉾巡行は曇り空のもと、約14万人の人々が見守る中、盛大に行なわれたそうです。鉾に乗っている人、引く人々の真剣な顔、お稚児さんの緊張した姿、見物人の興奮したお祭りの雰囲気が伝わってくる写真です。

 撮影は半世紀を経て、ネットで再会した小学校3年生の時の同級生、S君です。G_192370_2

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お便り

祇園祭り、懐かしいです。ほんと!
4枚目の写真は、多分四条河原町交差点で、方向転換の準備をしているところかと思います。うん十年前の、あの頃を思い出しています。
四条河原町所在の勤務先、今阪急デパートですが、そのときは、京都住友ビルで、住友系の会社で、1階:銀行、3階:商事、4階:海上火災、5階:生命保険でした。

祇園祭の日だけ、ビルの屋上を開放、屋上から山鉾巡行を見物できました。山鉾の方向転換は人の知恵と力の壮大さを感じ、7年続けて見た7月17日のことは鮮明に記憶に残っています。
来年は行ってみたいですね。  usako

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祇園祭

Photo_naginata_yoi00_03_3 2007・7・13

今年も祇園祭の季節になった。京都に住んでいたのは22歳までだから、もう東京で暮している年月の方がずっとずっと長い。それなのに私の思い浮かべるお祭りは浅草の祭ではなく、いつまでも京都の祭り・・・。

祇園祭はその中でも一番記憶に残っている。今でも祇園祭と聞くと、あのお囃子の音や大きな長刀鉾や月鉾を見上げていた小さな自分が鮮やかに蘇る。お祭り見物はたいてい祖母と一緒だった。白っぽい着物を着て、巾着袋をさげて、片手に日傘、片手に扇子を持って、汗をかきながら鉾の巡行を待っていた祖母の横顔が思い浮かぶ。しまりやの祖母が帰りにごちそうしてくれた氷金時の甘さも懐かしい。

祇園祭を最後に見たのは、大学4年の夏だった。そのとき、私はもう卒業と同時に東京に行くことが決まっていた。3週間の教育実習が終わって、その仲間が10人ほど宵山見物に連れ出してくれたのだ。

四条通りは、市電〈その頃まだ走っていた!〉の架線が取り払われ、広々としていたが、人があふれかえるような賑わいだった。河原町から烏丸方面に近づくにつれ、お囃子の音が大きくなり、周囲の見物人のテンションもあがってくる。あ、長刀鉾!・・・夜の闇の中、提灯の灯りで、鉾は輝いていた。

Nonはもう、このお祭りを見ることはなかなかできないよ。東京に行ってしまうんだからね。ようく、見ておくといいよ。」

灯りに照らされた友達の顔がみんな私を見てあたたかく笑っていた。(そうだなあ・・・京都しか知らない私がほかの土地で暮らすんだ・・・)ちょっと不安な気持ちがよぎったけれど、この祇園祭をその後何十年も見られなくなるとは、その時、考えていなかった。

友達の言葉はほんとうだった。祇園祭の最高の山場、16日の宵山、17日の山鉾巡行の時期には、仕事がまだ終わらず、帰郷することはできなかったのだ。テレビでコンコンチキチ、コンチキチ~と懐かしいお囃子を放映しているのをちらっと眺め、あの学生時代最後の夏に四条通に繰り出した仲間の言葉を何度も思い出した。

しかし、考えてみると、私にとっての祇園祭は、実際に見ることができなくなっただけ、心の奥深くで懐かしい風景として残っているのかも知れない。

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曼殊院

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 京都駅からJR奈良線で東福寺へ、そこで京阪電車に乗り換える。東福寺の駅は昔と同じように小さな駅だ。でも京阪電車は昔の終点三条京阪からさらに北へ出町柳まで延びている。出町柳は懐かしい駅。学生時代、松ヶ崎に住んでいた親友が叡電に乗るので、高野川と賀茂川が合流するのを眺めながらいつまでも立ち話をしていた。あんなによく話すことがあったものだと今はあきれてしまうほど。今その友は外国で暮している。きっと京都の風景を懐かしく思い起こすときがあるだろう。

 今日はやはり大学時代の友人と出町柳で待ち合わせ、一緒に曼殊院に行くことになった。修学院離宮には、2回行く機会があったが、すぐ近くの曼殊院は訪ねたことがなかった。

 叡電に乗って修学院で降り、東へ少しいくと白川通りに出る。白川通りからさらに東の方向へ細い道に入っていくと、道はゆるやかに曲がりながらだんだん勾配がきつくなってくる。今日は天候もよくないので人通りは少なく、やわらかな緑に包まれた家々が点在するのんびりとした風景に心癒される気分だ。坂道が続くので少し息をきらしながら歩いて行くと「詩仙堂へ」という案内板が右に入る道の脇に立っていた。

「詩仙堂!」学生時代何度も訪ねた場所・・・「こんなところにまでしょっちゅう来てたんやね。」「あははは・・・坂道がきつい、年をとったんや」そしてまた一段と急な坂道になってやっと曼殊院の境内にたどり着いた。

ふう・・お庭を見る前に、一休み。お抹茶とお菓子をいただきながら、ずっと西側につらなる山々を眺めた。上空では風が強いのか、ときおり青空も垣間見られ、緑の木々のむこうには山の姿がはっきりと見えた。曼殊院は最澄が創建者だそうだが江戸時代に現在の地に移され、良尚親王が天台座主となり入寺された門跡寺院だそうだ。霧島つつじや紅葉で有名だが、今は庭も背景の林もすべて新緑につつまれている。遠州好みの枯山水とか庭の砂は水の流れを表わしているようで鶴島と亀島が配され、小書院は水面を遡る屋形船に見立てられているらしい。鶴島の真ん中に樹齢400年の五葉松が見事に枝をはり、その根元にキリシタン灯篭が置かれている。親王が入寺された1656年にはもうすでに島原の乱も終わり、キリシタン禁令がしかれていたのに・・・なぜこんなのがあったのかとちょっと疑問に思った。

 縁に腰をおろして眺めていると日常の時間は遠くへ飛んでしまうような気がする。帰りは学生時代よく乗っていた京阪電車。窓からの風景はさすが古都、昔のままの家並みも多くあり、懐かしい風景だ。40年の時間を超えてこうして同じ空間に身をおくことができた不思議に感動した一日だった。

 土地も人も離れてみて、そのよさを再発見する。もし私がずっと京都に住み続けていたら、こんな感動を覚えなかったかもしれない。

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仏さまとも一期一会

07sakura_010_2 2007・5・25

帰ってきました。私はこちらには親戚が誰も住んでいません。母も弟も叔母も従姉もみんな関西です。それで年に2、3回は関西に帰ってあちこち訪ね歩きます。今回の誕生日の5月21日は従姉や叔母と楽しく過ごすことができました。その合間を縫って、まだ訪ねたことがなかったお寺を回っています。

今回は「空海の風景」で興味を持った高野山に行くつもりでしたが、その日は雨模様、雷雨も発生するとかで、急遽京都に変更しました。京都は以前「今になっておもしろい東寺」で書きましたが、京都にいながら一度も足を運んだことがなかった東寺を訪ねました。

京都駅から近鉄奈良線で一駅、数人が降りるだけの小さな駅。九条通りを西に行くとあの大きな五重塔が見えてきました。近づくとやっぱり大きく黒々と聳え立ち、迫力のある塔です。南大門から境内に入ると若々しい緑に輝く楠の木々が目に入ってきました。

今日の一番のめあては講堂の立体曼陀羅、21体の仏さまと会うことです。「現在ある東寺の伽藍で空海の時代のものは、何一つ残っていないが唯一、講堂の国宝諸尊が大師の理想を今日に伝えているのみである。」と書いてあったので、わくわくしました。講堂は1491年の再建らしいですが、北側にはやはり楠が枝を茂らせ、明るい緑の中にどっしりと建っていました。 

やや薄暗い堂の中に入ると一段高い須弥壇の上にたくさんの仏像が立っています。「これが、立体曼陀羅・・・」中心の大日如来はあと数センチで天井に届くほどの大きさ、この五智如来の東には五大菩薩、西には五大明王、それぞれの左右に多聞天、持国天、梵天、広目天、増長天、帝釈天・・・合計21体!

それぞれの詳しい仏さまの意味はよくわかりませんが、生きとし生ける人間の悲願がひしひしと感じられ、迫力がありました。とてもハンサムな帝釈天という仏さまはインドの神だそうで、天界の聖戦士とか、象に跨っておられ、これは密教独特の形だそうです。

 次に金堂に入りました。ここには薬師如来坐像そして左右に日光菩薩立像と月光菩薩立像、ここは講堂とは違った静寂さがあり、心が澄み通るような気分になれます。しかし、じっと見ているとこの薬師如来坐像もすごい・・・やはり3メートル近くで天井に届くようなな光背に彫られた七つの仏さま、台座の周囲にも12体が彫られていてそれぞれ違う姿をしています。ヨーロッパの教会でも細かな彫刻をたくさん見ましたが、人間というものは、すごいものだ・・・と感心してしまいます。

 午後は友人と待ち合わせ、もう一つのお寺を訪ねる予定、東寺にはまたもう一度来なければ・・・と後ろ髪を引かれる思いで京都駅に向かいました。「身は高野、心は東寺におさめおく・・・」

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マイ哲学の道?

Akatutuji_1  2007・4・26

ふるさと京都にある「哲学の道」・・・西田幾多郎は、疎水分流の道を好んで歩いたそうだ。彼は和服の着流し、下駄か雪駄ばきでステッキを持ち、小急ぎにセカセカと歩き、少し立ち止まっては考えにふけり、また歩き出すといった風だったらしい。現在は、銀閣寺から法然院を通り、熊野若王子神社下まで疎水べりに、春は桜、秋には見事な紅葉と観光スポットとしてあまりにも有名になっている。私も昔、友人と何度かこの道(まだ現在のようにきれいではなかったけれど)を歩いたが、あの頃はおしゃべりに夢中で、哲学、思索のムードではなかった。

ドイツに旅行したときは、ハイデルベルグに一泊したので、朝早く起き出して、これまた3人の友とネッカー川沿いの「哲学者の道」を歩いた。ここは、ゲーテ、ヘーゲル、ヤスパースなどがいつも散歩をした道だそうだ。「ここまできて、「哲学者の道」を歩かないなんてね!」といきおいよく出発し、食事の時間に間に合うようにと息を切らしながら大急ぎで歩いた。対岸には、ハイデルベルグの街並みやお城が見え、景色もいい散歩道だったのだが、これまた哲学・・・というにはほど遠い駆け足散歩?だった。

やっぱり散歩は一人がいい。ゆっくりがいい。誰かと歩いていると考えごとができない。家に閉じこもってじっと考えごとをしていても、解決しないときには、とにかく外に出て歩き始める。不思議なことに歩いていると解決の糸口が見つかったり、いいアイデアが浮かんだりしてくるのだ。木々が風に吹かれる音を頭のすみで聞きながら、大好きなさつきの咲く道を歩く。たまに西田幾多郎のように立ち止まって空を見上げる。考えている内容は天と地ほど違うけれど。〈笑〉

「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」と幾多郎先生もおっしゃっている。

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郷愁の風景(9) エピローグ

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5歳の夏、母が行ってしまい、間もなく新しい母がやってきた。たいへん申し訳ないけれど、私はその母のことは、あまりよく覚えていない。私は相変わらず野原で遊び、山に登り、川で魚を追いかけ、日々を過ごした。小学校に上がると、友達が次々とできて、行動範囲も広くなり北大路の方から白梅町、北野神社、などまで足を伸ばしていた。友達はみんなとてもいい印象で残っている。学校帰りにいつも遊びに行った平野神社の裏のYちゃん、等持院のそばにお家があって、一緒に蓮の花が開くのを朝早く見に行ったKちゃん、(Kちゃんのお母様がご馳走してくださったえんどう豆のお饅頭は本当においしかったので、今でもときたま、えんどう豆の出る季節には、思い出して作ってみる。)わら天神さんのMちゃん・・・みんな仲良くしてくれた。3年生になった私は男の先生が受け持ちになり、放課後、よく屋上で遊んでもらった。そのとき、撮ってもらった友人との写真が私の記憶にあの頃のことをとてもはっきり残してくれた。

3年生を終えると私は祖母の家に預けられることになり、衣笠を離れなくてはならなくなった。祖母の家は、衣笠の家から歩いて40分ほど南にあった。しかし、そこには、もう山もなく、川もなく、野原もなかった。学校には少しずつ慣れ、先生にも可愛がっていただき、友達もできてきたが、私が小学校卒業文集に書いた作文は、あの野原と山で遊んだ衣笠への郷愁だった。

今回「郷愁の風景」に書いたのは、衣笠の家にいた3歳から9歳までの、私の記憶のごく一部分、それも、心に残っているイメージと実際の文では、かなり違ってしまってもどかしい思いがするが、書きながらまだあんなことも、こんなこともあった・・と思い出してきた場面があったのも事実だ。また、それらを少しずつあたためていつか書いておこうと思っている。

現在~過去~未来、 過去~現在~未来。

よく「過去を振り返っても仕方ない。過去はもう過ぎ去ったもの、変えようがない。大切なのは、現在、そして将来、未来だ。」という言葉を聞く。若い人にとっては、確かにそうかも知れない。しかし、人生の後半に入ってきた私は、少し違う感じ方をしている。

「現在は飛ぶように過去に変身するし、未来は不確かなもの。自分にとって確実、明確なのは、過去だけ。私は過去を大切にしたい。どんな過去でも、それは自分がその時、その時、懸命に生きてきた証なのだから。今は過去となったすべての出来事を肯定し、大切に記憶に留めておきたい。」と思っている。

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郷愁の風景(8)ちょっと悲しい父母の思い出

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幼い頃の記憶の中に一家四人が揃って食事をしている光景はほとんどない。

父は現代の親と同じように忙しかったのだろうか・・・。私が覚えているのは、酔っておそく帰ってくる父の姿だった。父はおそく帰ってきても必ず寝ている私たちを起こして

「おみやげだあ」と甘いものを手渡した。しかし、私は酔っ払っている父が大嫌いで、寝たふりをしていることがよくあった。父は酔っていても、それに気づいていたのだろう。素直に喜ぶ弟をより愛していたように私はずっと思っていた。

父のおみやげが、帰りに川の草むらで捕ってきた蛍だったりカミキリムシだったりしたこともあった。蛍は私たちの寝ていた蚊帳の中に放たれてあちこちに留まり、青白くぽっぽっと光っていた。蛍は虫かごに入れるといくら水に濡らした草を入れても、次の朝には、ひっくり返ってしろっぽくなり、死んでしまう。私には元気に青く光っていた蛍よりも、真昼の光の中で白っぽくなっていた蛍の姿が記憶に残っている。

母との思い出はたくさんあるが、毎朝長くしていた髪を梳かしてもらうとき、窓辺から見えた隣の空き地のコスモスの花をよく思い出す。後年、母と再会し、友人がくれたコスモスの写真を手紙にいれておいたら、

「ねえ、私がコスモスの花が一番好きだったってこと、よく覚えていたわね・・・。」と驚いたように言った。あの窓辺から母と子で眺めたコスモスの花は、半世紀を経てもなお、それぞれの脳裏に残っていたのだと思うと不思議な気がする。

もう一つ、その頃、家にはお風呂がなかったので、わら天神の付近の銭湯に出かけていた。石段を降りて川沿いの道を歩き、畑に沿った細い近道を行く。畑の隅に積み上げられた土の中から芽を出したカボチャがつるを伸ばし、黄色い花をいっぱい咲かせていた。母の話では私は陽気な子でいつも大きな声で歌を歌っていたそうだが、その日もカボチャ畑の道を歩きながら“わたしゃ~ みなしご~ かいどう~ぐらぁし~”と声をはりあげて歌う私を、子どもを置いて別れて帰る決心をしていた母は(あ・・・あしたは、自分がみなしごになる運命なのに・・・)と涙したそうだ。お風呂に行く道に咲いていたこのカボチャの花も母と私が共通して覚えていたものだった。

カボチャの花

小さな川の小さな橋をわたると

小さな畑がわたしたちを迎えてくれた

そこは かあさんと銭湯に行く時

いつも いつもとおる道

あの日の夕方

小さな畑に あたたかな黄色の花をたくさん見つけた

「カボチャの花よ。」

かあさんの言葉のとおり

黄色い花は小さなまるい実をつけて

やがてどんどんふくらんでいった

秋がきて カボチャがいくつもころがって

畑は元気いっぱいだったけど

それを教えたかあさんは もう

わたしのそばにはいなかった

Kabotya

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郷愁の風景 (7) 草むらの岩  

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2007・4・12

家の前はテニスコート4,5面くらいの広さで草むらになっていて、その向こうは松林だった。草むらにはところどころに子どもの背をはるかに超える大きな岩が転がっていた。

春先、まだ草丈が伸びないうちは、そこは子ども達の格好の遊び場になった。小さなピンクの花をつけるマメ科のカラスノエンドウ、タンポポ、スミレ、ヨモギ、スギナなどが草むらの主人公達。近所の子ども4,5人が集まると、自然に足は草むらの岩に向かった。

岩は私たちがよじのぼれるように、ところどころにへこみのある場所があり、そこに手をかけ、足をかけてやっとこさ岩の上に立つ。岩は4,5人の子どもが並んで立って、松林に向かって、「ヤッホーーーー」と声をあげても、余裕の広さ。春の陽射しはまぶしく、岩のぬくもりは優しかった。そこで私たちは一日中、摘んできた草花を持ち寄って、ままごとの皿に入れ、刻んだり、色水をつくったりしてあきることなく遊び続けた。

あれはいつごろだったのか・・・大きな岩のまわりに枯れたススキを敷き詰めて、丈の長い草をいっぱい集めて屋根を作ろうということになった。みんなで一日中、汗を流して草を集め、大きな岩から小さな岩へ、橋わたしの屋根、完成!

私たちは嬉しくてキャッキャッとはしゃぎながら、交替で潜りこみ、寝転んで草の屋根を見上げた。夕陽が山に入り始め、少し薄暗くなった野原の岩かげは、もうすぐ夜を迎える予感がしてわくわくした。「ここで、泊まりたい~」

夕方の空には、ゆっくりととんびが輪を描いて飛んでいた。暗くなるまで遊んでいると「子捕りがやってきて捕まえ、サーカスに売り飛ばされる」というのが母達の脅し文句だった。衣笠山の上に並ぶ木々の隙間からもれる朱鷺色の光がだんだんうすくなりはじめ、あたりが急に暗くなると、私たちは、後ろ髪を引かれながら家に帰った。

あの時の胸の高鳴りを、その後何度思い起こしただろう。しかし、わたしの人生には、あれ以上のスリリングなときめきは、ついに訪れることはなかった。(笑)

初夏の夕暮れ

さあ、そろそろ おうちにおはいり・・・

ええ、かあさん、でももう少し・・・

これから とてもおもしろくなるの

夕日はとっくに沈んでしまって

山際はうすい朱鷺色を背に

影絵になって浮かび上がる

やがて

空から落ちてくる青い闇が

ゆっくりと私を包み

小さなお前は一人きりだよと囁きかける

さっきまで友だちだったはずの木が

ばさばさと枝をゆらし

まるで昼間とちがう顔を見せる

でも、みんなのおしゃべりが聞こえるのは今からなの

わくわくする夕暮れどき

かあさん、もう少し外にいていいでしょ

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郷愁の風景(6) 友だちと・・・

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      2007・4・9

近所に仲良く遊んでくれた友だちが何人かいた。今でもよく覚えているのは、石段の崖にそって建っていた大きな家のKちゃん(一つ年下)、Kちゃんはとても活発な女の子で、昆虫網を持って野原を走り回ったり、野原に落とし穴を作ったり、草を束ねて結び、誰かを転ばそうといたずらをしたり、男の子みたいな遊びが大好きだった。今も私の右の腿にある傷はKちゃんと駆け回っていて、溝の蓋がずれていたところに足を踏み入れて怪我をしたものだ。一つ年下なのに背が私より大きくて、なんかたくましい感じがしたっけ。

山に向かって建っている家の2軒目に住んでいたEちゃん(一つ年上)、Eちゃんはお姉さんが、熱烈な宝塚ファンでスターの名前をよく知っていた。スターの写真がいっぱい貼ってあるお部屋にあげてくれて、よくおはじきや竹返しをして遊んでいたが、私たちがあそんでいるとEちゃんのお母さんがいつも、「私もいれて・・・」とはいってきた。なんだか暖かい雰囲気の家で、庭の見える部屋にさしこむ穏やかな光の記憶が今も残っている。

そしてこれは、友だちというより、お兄ちゃんのTちゃん、Tちゃんは堂本画伯の家の人で、私たちの住んでいた家を7,8軒合わせたような大きなお屋敷から出てきたが、ちっともいばったようすはなく、小さい子をとても可愛がってくれた。今思うと6年生だったのだ。集団登校の班長さんだったのか、小松原の細い道を私たちは毎朝、Tちゃんに連れられて登校した。夏休みには、Tちゃんの家の前に集まってラジオ体操をした。そのとき、Tちゃんは私の体操をみんなの前で褒めてくれたのだ。だから私は体操が大好きになって、中学では体操部に入り、北島選手みたいだが、ライバル校欠場の京都市中学校体育大会の平均台で2位の賞状をもらった。生涯たった1回のスポーツ表彰。でも、それは私の宝物。Tお兄ちゃんに感謝している。

この頃の遊びはたいてい異年齢集団、だから私たちは上級生からいろんなことを教わった。ある年、大きな日食があった。大きな子たちが、七輪のようなものを持ってきて、煙を出し、ガラスのかけらをいぶして真っ黒にしてくれ、日食を観察した。すすけたガラスの破片を空にかざして太陽を見たら、あ、あ、という間に太陽が欠けて行った感動は今でも忘れられない。

 秋にはとんぼが手でつかめそうなくらい、群れて飛んでいた。これも誰かが教えてくれたのだけど、糸の両端に石をくくりつけて、石段の上に立ち、とんぼの群れに投げ上げる。とんぼの羽にひっかけて捕るということらしかったが、私は一度も捕れたことはなかった。でも、おにいちゃん達の中には、見事に引っかける人もいて、私もいつか捕れるだろうとあきずに、何度も何度も投げ上げた。

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郷愁の風景(5) 山は友だち

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私は後年、信州の山々もよく歩いたし、富士山にも、奥日光の山々にも何度も出かけた。それはそれで美しく壮大で魅力はあるけれど、たった200メートルのこの衣笠山は私にとって特別な意味を持った山だった。幼い孤独な少女を、この山はいつも、あたたかく迎えてくれ、慰めてくれたのだ。

衣笠山の登り口は現在、堂本印象美術館になっているすぐ横にあった。ゆるやかな坂を少し登って右に折れると当時はまだ食料不足の時代で、山の入口付近には、さつまいもなどが植えられた畑があった。棚田ならぬ棚畑を2,3枚よじ登っていくと、そこは雑草や野茨が茂る見晴らしのいい野原になっていた。春には、蕨などが沢山採れる場所だ。そこまで行くとちょっと一休み、さわやかな風に吹かれながら、私たちが住んでいる家々の屋根を見下ろす。

「さあ、今日もやってきましたよ!」一人で山に登る時は、いつも何かぶつぶつおしゃべりをしていたような気がする。あるときは、長い間の眠りから醒めたお姫様であったり、あるときは、山を知らない海の底からやってきた女の子だったり、物語は、山登りの楽しさを倍加してくれ、次々と湧き出てくる想像に胸をはずませながら登っていく。

やがて木々が茂る道に入っていく。でもまだ背の低い木々が多く、このあたりには食べられる紅い実をつけた魅力的な木もある。チューリップのような形の紅い実は、熟すととても甘くておいしい。

「ありがとう!今日はごちそうがいっぱい、海にはこんな木の実はないんですもの。」

海からの女の子は口のまわりを紅くしながら、木にお礼を言ってまたずんずん登っていく。道はいくつもあって真ん中の道は、衣笠山らしからぬ杉の植林地みたいになっていた。この道は近道だけど、急で石がごろごろしているし、おまけに少し暗いので、嫌い!今日はもっと右よりの道をとる。

その道をしばらく行くと、少し平らになっている場所に出て、そこからはずっと遠くの町のようすがよく見える。石に腰かけながら、木々のざわめきを聞き、遠くに小さく見える「下界」を眺めていると「私」は今、特別の世界に生きているように思えてわくわくした。

一休みするとさらに上をめざして登っていく。頂上が近いのか明るくなってくるのだけれど、なかなか頂上には辿り着かない。やっとこさ、もうこれ以上の上はないという平地に出る。しかし、そこは、あまり見晴らしがよくなくて、山の裏側はなんとなく不気味な感じがした。山は南東に向けてはその顔を見せて微笑んでくれたけれど、北西の顔はほとんど見たことはなかった。

小さな私はちょっと淋しく怖くなって、山をかけおりる。今度はうんと南よりの明るい道だ。木の根っこを飛び越し、松の枝に手をかけ、漆の木を避けながら一気にかけおりる。

そんなとき、もう山は話しかけてくれない。夢中でかけおりてさっきの山の入口が見えるとほっとして歩をゆるめる。野原の陽射しはさっきと同じようにのんびりと穏やかだ。山もまたやさしい顔に戻っている。

 この山にいったい何度登ったことか。山のどこにうさぎの穴があって、どこに食べられる木の実があって、どこに登りやすい木があって、どこにかぶれる漆の木があるか・・・みんなみんな知っていた。

☆ 現在の衣笠山(小学校の同級生S君撮影)

Kinugasayama1_1 龍安寺の池から

Kinugasayama2_4    

南東から

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私の家があった通りから

(野原や松林だったところは中学校)

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南側から

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郷愁の風景(4) 金閣寺炎上 

623370_1 2007・4・6

(2007年2月小学校の同級生S君撮影)

 

 子ども達にこの火事のことを話すと「きゃあ、生きた歴史証人!」と笑われたけれど、この日のことは、なんだかみょうに覚えている。

 その日の朝方、まだ夜が明けきらないうちに、母が私たちが寝ていた2階の北側の窓を開けた。「さっきから消防のサイレンが鳴りっぱなし・・・どこだろう?」と言いながら窓から顔を出して松林の方を見ている。

「あれ、金閣寺の方だ・・・」

「わあ、煙がずいぶんあがってるわ。まだ燃えているみたい・・」

 2階の窓を開け放して父と母が話をし、私たちも起き出して、窓のでっぱりに身を乗り出していたら、近所の人たちも起き出して道路に出てきた。

「金閣寺みたいですな・・・」

「ものすご、燃えてますね。」

「ちょっと行って見てきましょう。」

 私たちも階下に降りて、外に出た。母に手を引かれながら、ちょっと不安な気持ちで石段を下り、川沿いの細い道を歩いて行った。その道は少しカーブしながら金閣寺の裏手の方につながっている。5,6分で、金閣寺の森の裏の広い道に出た。そこはもう、人であふれていた。たくさんの人が裏の山の方を見ながら、囁くように話していた。

「あの山に逃げ込んだんやて・・・」

「金閣寺で修業していたこぼうずやそうやで・・」

「なんで、また・・・」

 私も人ごみの間から、山の方をのぞいた。まだ薄暗い中をたくさんの松明がちらちら動きながら、山に登っていくのが見えた。犯人を追いかけている松明・・・・。なんだか怖くなってきた。

 消防自動車は裏手の池からホースで水を汲み上げ、消火活動をしているようで、道には濡れたホースが何本も交錯していた。そこからは、金閣寺の森しか見えなかったが、まだ赤い炎がかすかに見え、あたりは煙に満ちていた。

(どんなぼんさんやろ・・・)(なんで火なんかつけはったんやろ・・・)(つかまったらどないなるんやろ・・・)

私は小さな頭で一生懸命考えたけれど、わからない。家に帰ってきた頃、夜が明けてきた。

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郷愁の風景(3) 幸せの色 

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 ☆写真は朱鷺の舞(梅)

 子供時代の私にとって一番思い出の深い色は「とき色」そう、あの鳥のように桃色と薄いオレンジをまぜたような白ともピンクともオレンジともつかぬあわい色・・・・

 3,4歳の頃、私の着ている服、つけているエプロン、持っているリボン、すべてがうすいピンク、とき色だった。その頃、その色が大好きで、いつも同じお気にいりの服を着て写真に写っている。違うものを着せようとすると機嫌が悪かったのだとあとで母から聞いた。

 母や時折奈良から出てきた祖母、親しくしていただいていた隣りのおばさんが苦笑しながらしゃべっている。

「なんだろうね。この子は・・・どこに行くのもこのエプロン・・・」

ふふふ、とき色の大きなポケットのついたエプロン、母の手づくりのお気に入りのエプロン・・・そして同じ色の大きなリボン・・・エプロンのポケットには、これまたお気にいりのガラスのおはじきやビー玉、きれいな石など・・・このエプロンを着けて、この宝物を持っていると何者もおそれるものなし!という気分だった。

私の平和な時代の幸せな色・・・・と・き・い・ろ・・・・・

 洋服にもテーブルセンターにもその他の持ち物にもあまりその色はなく、その後あまりなじみのなくなった色だけど、今でも私の幸せな色であることに変わりはない。その色に巡り合うと、わけもなくやさしい気分になり、自分も大切にされていた子供だったのだと思えるのだ。

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郷愁の風景(2)  小川の楽しみ

Seiryu034_1     2007・4・3

私の住んでいた家は京都の北西にある衣笠山という小さな山のすぐふもとにあった。

 家の前はすすきや雑草の茂る原っぱが広がり、その向こうは松林、左手には山が迫っていた。家の前の通りのつきあたりは12,3段の石段になっていて、それを降りると金閣寺の裏手につながる小川に沿った細い道に出た。川は道からさらに2,3メートル低いところを流れていたが、土手にはところどころに川におりる道がついていた。

夏は両岸に草が生い茂り、その草をかき分け、かき分けすべりおりて、やっと水辺に到達する。今考えると何の変哲もない小さな流れだけれど、幼い私たちにとっては、格好の遊び場だった。網を持って魚を追いかける。めだかはすばしこくて、なかなか捕まらないけれど、ちろちろ光りながら流れる水の中で、足元の石をそうっとひっくり返すと石の下には、どんこやカニが息をひそめていることがあった。「この石の下にいるにちがいない・・・」次々と石をひっくり返しながら川の中をどんどん進んでいく。

上流に上っていくと、流れは二つに分かれ、その一つは大きな屋敷の裏手に沿って流れていた。ちょっとした囲い塀がしてあったのだが、子供たちはそこをすり抜けて裏の流れに入っていった。屋敷の角に沿って川は90度カーブしていた。その一角はとても神秘的な雰囲気で水の流れの上に美しい緑がたれさがり、澄んだ水が少し深くたまっていて、まるで不思議の国にはいったような気分になるのだ。

「見つかったら叱られるかもしれない・・・」そんな気持ちがかえって大冒険をしているようで、わくわくした。私たちはそこで石を積み上げたり、くずしたり、夢中になって遊び続けた。

 屋敷の裏手を流れる川をさらに遡るとどこへ出るのか・・・私には記憶がない。幼い私たちの冒険テリトリーはきっとそのあたりまでだったのだろう。

夏にはうっそうとした草むらで蛍の宿となる川の土手も秋にはあちこちに彼岸花が群生し、赤とんぼの群れが旋回していた。土手をよじのぼって、むかごをポケットいっぱい摘み取って持って帰ると、母が「これは食べられるのよ」と煮てくれたのを思い出す。

この小さな川と土手の草むらは、とても楽しい遊び場だった。

Mukago

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郷愁の風景(1) プロローグ

Mebuki4_1  2007

 4・2

 

 

 

 この間、どこかのホームページに、こんな言葉を見つけました。「人間の最大の幸福は、子ども時代のすばらしい思い出を持っていることだ。」これは、その人の言葉なのか、誰か有名な人の言葉なのかわからないのですが、とっても、納得しました。

 小説家や詩人、画家などが自分の作品の原点になっているのは、幼少時の環境、触れた人々や自然で、それらが創作意欲のもとになっていると語っているのを聞くことがよくあります。ヘルマン・へッセの小説の中にも「自分が一番幸せだった幼年時代」と言う言葉がよく出てきます。「あやめ」という短編小説には、幼年時代、母親が大切に育てていたあやめの花の中を覗きこみ、その美しさに惹き込まれて、生涯それに捉われて生きる男性の話が描かれています。

 またイギリスの詩人、ワーズワスの詩にも「幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示」というのがあって、そこで彼は幼子が栄光に輝くのは、天上から発する自由を身にまとっているからで、歳を経るとともにその魂は現世の重荷を担うようになる。・・・しかし悲しむのはやめ、残されたものの中に、原初の共感の中に、草に見た輝き、花に見た栄光を見つけようと叫んでいます。最後の章は次のように書かれています。

「落日のまわりに群がる雲に

落ち着いた色合いを読みとる眼は

人の死を見つけた眼。

人生の大人の歩みを経て新たな報償が得られる。

生きるよすがとなる人の心のお蔭により、

人の心の優しさや、歓びや、恐怖のお蔭により、

私には、つつましく開く花でさえしばしば

涙よりも深く底知れぬ感動をもたらす。」

(「ワーズワス詩集 山内久明編 岩波文庫」 より)

 つまり人生の中で一番感性が豊かで、すべてを吸い込む力を持っていた時期に見ていたものは、一生涯その人間の心のどこかにあって、消えないものだと思われます。またそれが晩年になってもなお、その人の魂をゆさぶるものだというのです。

 私は5歳のとき、両親が離婚したので、自分の子ども時代は暗いものだとずっと考えていました。でも、年をとった今、あの頃を振り返ると、明るい陽射しの中で輝いていた幼い自分がいくつも見えるような気がするのです。そしてそれらは、何かしら心なごむ思いを与えてくれ、今の自分を元気づけてくれる・・・あれはいったい、何だったのだろう・・・。

もう少しはっきりさせるために、おぼろげな記憶をたどってみようと思います。

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今になっておもしろい東寺 (Non)

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  「古寺を巡る」は結局あの後、毎週本屋さんに行って買っている。(笑)第3週目は「東寺」だった。東寺の五重塔は京都の象徴、でもこのお寺は京都駅の南側なので、ほとんど訪ねることはなく、学生時代にたった1回塔の下に立ったことがあるだけだった。もちろん弘法大師が嵯峨天皇から賜ったお寺であるとか、北側に広がる本願寺よりずっと古く京の歴史1200年を一度も場所を変えず存続しているお寺だとか、そんなことは全然知らなかった。

 「空海の風景」を読んでから空海(弘法大師)がとても身近に感じられるようになった。空海がどんな生涯を送ったのか、どんな思いをもって生きたのかを少し垣間見たように思った。真言密教についても司馬氏はたくさん書かれていたが私にはよく理解できない。よく理解できないけれど、とてもスケールの大きな思想であることはなんとなくわかる。

「宇宙の原理を苛酷な悪魔的なものとしてとらえず、絶対の智慧と絶対の慈悲でとらえたところに、純粋密教を成立せしめた思索者の思想的性格の温かみがわかるであう。・・・この点についてのみ、釈迦の思想と対比すれば、釈迦はあるいは敗北を感じていいかもれない。・・・」と書かれていたのが強烈に残っている。

 梅原猛さんの話では、限りなく深い智慧と慈悲でもって人々を導く大日如来を中心とした宇宙観は、古くから日本に伝わる神道と一体化して深く根付いたということらしい。

 「風信帖」は空海から最澄へあてた手紙の最初の部分だそうで、学生時代みんなが「今度のお手本は風信帖だって!」とさわいでいたけれど、私はよくわかっていなかった。でも空海と最澄の激しい心の葛藤を秘めたやりとりと最後の絶縁の手紙をも知った今は、なんか興味津々だ。

 空海が強い思い入れで計画した講堂の立体曼陀羅も見てみたいし、堂本印象画伯が描かれた小子房の絵も(期間限定みたいだけど)見てみたい。KazさんもBlogの記事に書こうと確かめていくうちに西行の歌などに興味を抱き、おもしろくなってきたと話されていたが、私も同感、これから関西に帰るたびに、少しずつ確かめてみたいと思っている。_035_2

usakoさんからのおたより

ちょうど一年前の冬の京都、父の入院している病院が京都九条病院(JR東寺駅徒歩10分)でした。
京都駅八条口から東寺への道を父の病いが体に優しく、暴れないように、穏やかにしていてくださいと一心願い歩き、ご本尊の前で何回も手を合わせことを思い出しています。
前立腺癌から肝臓・・骨に転移して想像を絶する激痛と闘っていた父。父の道楽は登山。
そんな闘病中にあっても、登山の計画は尽きることなく、その資料を見舞いに来る息子や友人に頼み、家に取り行かせたり、図書館で調べさせたり、最後まで山を愛し続けた父でした。
でも、時折見せる不自由となっていくわが身を嘆くような顔が深く心に残っています。
息子から「おじいちゃん、もうこの春のお花見できないよね。さくらの花のお見舞いしてあげようよ」と言われ、病室に活けた日のこと。
その日から5日後、父は93歳の誕生日を目前に永眠。さくら吹雪の中葬送った日が昨日のようです。

このページを読んで
父と行った仏像拝観、21日弘法さんの骨董市などなつかしく思い出しました。ありがとう。

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続・川の記憶 (Non)

Imi_3347a_2    2007・3・5

上流の紙屋川、鷹が峰あたり

 

 昨日、夢の中の川が紙屋川に似ていると思い当たりそのことを書いた。しかし、私の記憶にある紙屋川は天神さん近辺だけで、その川はどこから流れてくるのか、またどこへ流れて行くのか、知らなかった。

そんな疑問を幼馴染みの友人に書き送ったら、調べてくれた。

1、源流は沢山という京都北西部の山地で、鷹が峰の東を迂回して、光悦芸術村には、紙屋川を取り入れた庭園がある。

2、平安時代には、この紙屋川で和紙が梳かれていたようで、そのことが源氏物語「鈴虫」の巻に描かれている。

http://www.pp.iij4u.or.jp/~hiroya/tokusetsu/etc/tset01.htm

(友人が紹介してくれた紙屋川について書かれたサイトです。)3、紙屋川は北野天満宮の横を流れていくことから、天神川と名を変えて、やがて桂川に注ぐ。             

 夢に出てくる川に似た写真があった。川岸にうっそうとした木が茂っている。

北野の森の中を流れている部分らしい。今度帰ったら辿ってみたいと思っている。

上流と下流、過去と現在、夢と現実の間を行き来するのは、とても楽しい。

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北野の森あたり

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五条通り、もう天神川

    

 

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川の記憶 (Non)

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すっかり整備された紙屋川

 夢の中に、ときどき自分が一生懸命流れる浅い川を遡ったり、川に沿ってずっと歩き続けているような場面が出てくることがある。

はじめは、川岸に咲く草花に目がとまり、楽しみながら行くのだが、ふと気づいてあたりを見回すと今まで見たことのない景色の中にいるのだ。とたんに不安になり、必死で先を急ぐ。だんだん川の流れは速くなり、歩く道には流木や大きな石がごろごろしている。

それでも水の流れていく方向に歩いていけば、私の知っている場所に行き着くことを信じて懸命に歩いていく。

 夢に出てくる川は子どもの頃よく泳いでいた嵐山を流れる大堰川でもなく、家の近くにあった小川でもない。ちょうど中ぐらいの川幅で水量もさほど多くない川。その川がどこの川なのか、あまり深く考えたことはなかったのだが、先日、幼馴染みが送ってくれた北野天満宮の横を流れる紙屋川の写真を見て、「あ、これだ!」と思い当たった。

 友人の送ってくれた写真はもうきれいに整備された現在の川の写真だったが、どこかに昔の面影があった。たぶん、小学生低学年の頃だが、この川に沿って平野神社の裏手から天神さんのところまで遊びながら歩いていった。ときに川の中に入ったり、ときに土手を伝ったり、雨上がりの日には丸太が引っかかっていたような気もする。家の裏手を流れる小さな川なので、今みれば、なんでもないけれど、あの頃はちょっとした冒険心をかきたてられ、どきどきしながら、川に沿って歩いて行ったのだ。夢の中の不安は親にだまって危ない川の土手を伝っていった子どもの心だったのかも知れない。

 家の近くを流れていた小川はもう今はコンクリートが架けられ、道になってしまった。

彼岸花もすすきも蛍も夢のなか・・・。紙屋川にはいつまでも健在でいてほしい。

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みやこごはん

2007・2・5

 私の父方の家は、祖父が校長職、曽祖父は宮内庁のお役人という固い職業だった。だから祖母は、外面はきちんと整えなくてはならないし、薄給なのに6人の子どもは教育しなければならないしで、家計は節約、節約でたいへんだったとよくこぼしていた。

 だからお正月やイベント日以外の毎日の食卓は、ほんとうにつつましいものだった。

でも祖母の漬物はとてもおいしく(特にぬかづけ)彩りのきれいな野菜の煮付けもおいしかった。

一つ、今でも、ときどき思い出して作るのが、「みやこごはん」このネイミングは

祖母の発案だったのかどうかはわからないのだが、とても簡単な味ごはんだ。

1、しょうがの大きな1片を細切りにする。

2、出し昆布も食べられるように細く切る。

3、1と2と酒少々と醤油を加えてごはんをたく。

 要するに、しょうがと昆布だけの味ご飯なのだ。しかしこれがとてもさっぱりしていておいしい。特におこげになったところは、香ばしくていつも取り合いになった。

祖母の話では、これでおかずが一品節約できたのだとか・・・。

 後年、大阪に住む叔母の家に行ったとき、「みやこごはん」の話が出て

「あれ、おいしかったねえ。」と盛り上がった。

それにしてもこんな貧しさから生まれたごはんにみやこ人をイメージする「みやこごはん」なんて、うまい名前をつけたもんだと感心する。

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