郷愁

いい話

2009・11・1

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前回「秋の中の春」に書いた「春のような生き生きとした楽しい時間」の訪れを体験した人のことを思い出した。

先週、同窓会があった。幹事さんが次々と楽しい企画をたててくれ、観桜の会、蛍狩りに続いて今年はもう3回目、今回は清澄庭園(三菱財閥の岩崎弥太郎が大名の下屋敷や豪族の館跡を買い上げ、造園した)の涼亭で楽しい会食だった。いつものメンバーにプラス、サプライズゲストなる方が出席されるというので、みんなわくわくしていた。

会場にはやばやとついていたのは、K氏だった。もちろん卒業以来の対面だ。でもなんとなく高校時代の面影があって、すぐにわかった。私には、やんちゃな少年という印象だったけれど、K氏はK大に現役合格された秀才だったらしい。

次々と思い出話に花が咲いた。Oちゃんが言った。

「いやあ、ここに彼女がやはったら、どんなによろこばはるやろ。Kさんのことを大好きだった美女がやはったんえ。残念やけど、7年前に亡くなったの・・・・。高校時代、Kさんの家を見に行くからついてきてと頼まれて一緒にいったんや。知らなかったでしょ。」

そういえば、その話、聞いたことがあったなあ。それになるほど彼女はすらっとした細身で小顔の美人だった。そうか、K氏のことだったのか・・・Oちゃんは彼女と仲良しだったので、亡くなった時はとても落ち込んでいた・・・・彼女に苦労をかけただんなさんにも腹を立てていたっけ・・・・などと思いめぐらしていると・・・。

K氏ははじめ、からかわれているのかと思っておられたらしいが数人が同意するに及び、真実だったことを理解されたようで、「え?名前を教えてよ。だれ?だれ?どうしてそのとき、教えてくれなかったのか・・・今ごろ知ってももうおそいよ。ああ、残念・・・」と、とても悔しそう、いや、とてもうれしそうに照れておられた。

ふふ・・・、なんかいい話だ。やっぱり同窓会は楽しい。ちょっと意地悪なOちゃんは、彼女の名前を次回まで秘密にしておくと言った。彼女の名前を知っている数人は、まったく、全く「王様の耳は、ろばの耳!」だ。

でもK氏は次回の同窓会が楽しみでしかたがないはず。

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同窓会は「ほたるまつり」(Non)

2009・6・17

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さくらの季節に会ったばかりだけれど、楽しい会は何度あってもいい。今回は「福生のほたるまつりに出かけましょう」という幹事さんの企画で、「ああ、ほたるなんて、前にいつ見たかしら・・・楽しみ!」とわくわくしていた。

 青梅線には友人が住んでいるので、よく乗るけれど、牛浜という駅に降りたのは初めてだった。今夜のほたるまつりは、地域の「ほたる研究会」が育てたゲンジボタルが玉川上水やほたる公園の湧き水がある小川に放されるということで、市の後援もあって、大勢の人々が集まっている。いかやとうもろこしの香ばしいにおい、やきそば、あんずあめ、ゲームなどの屋台が沢山並び、お囃子も賑やかで子どもたちが楽しそうに笑い声を立てていた。

 「ふふ、天神さんを思い出すわね。」とWさん。京都北野天神には、毎月25日になると、たくさんの屋台が参道にぎっしり並び、おこづかいをにぎりしめた私たちは、目をきらきらさせながら、何ども往復したものだ。それは、我々共通の懐かしい思い出。今、ここにこうして集う子どもたちも、いつか、このほたるまつりを懐かしく思い出すのだろう。

 暗くなるまでもう少し・・・我々はお庭の美しい料理屋さんにはいって、しばし、おいしいお酒とお料理、そして何より楽しいおしゃべりで時を過ごした。

 外に出ると、すっかり暗くなって、いよいよほたるとの出会いの時間。ライトを消した暗闇の中、川のほうに石段を下りていく。坂の途中で誰かが「あ!光った!」と叫んでいて、私も目を凝らして暗闇の木陰に集中する。ああ・・・ほんとに青白い光が二つ三つふあっと浮かび上がった。さらに下におりてほたる公園の中に入っていくと、夜目にも透き通った小さな川が流れていて、川岸の草の間にたくさんのほたるが光っていた。我々は、みんな、石段の柵にへばりついて、じっとほたるの飛ぶようすを眺めていた。アコママさんが「ほっ、ほっ、ほたるこい、こっちの水はあまいぞ・・・」と歌うと一匹のほたるが、すうっと私たちの方へ飛んできた。まるで魂のあるもののように・・・。不思議・・・。

 帰り道、玉川上水の橋から眺めると、両岸の草の茂みのあたりに、たくさんの蛍が飛んでいて、とても美しかった。ここからの眺めは100年ほどタイムスリップしたみたいに、情緒があって、なかなかのものだった。

 子どもの頃、金閣寺の方から流れてくる小川が近くにあって、夏には蛍がたくさん飛んでいた。酔っ払った父が帰り道、何匹か捕まえてきて、蚊帳の中に入れてくれた。そんな遠い昔を思い出す楽しいひとときだった。遠いところからかけつけて来てくれたお友達、そして洒落た企画をしてくれた幹事さん、ありがとう!!!

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玉川上水

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思い出の庭 (3)

2008・7・29    等持院 心字池 清漣亭

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京都には、たくさんの名園があるけれど、子ども時代には、興味は持てず、大学時代にそのいくつかを巡り歩いただけだった。しかし、家の近くにあって、半分遊び場のようになっていた場所の一つに等持院がある。私の住んでいた衣笠山のふもとから、祖母の家があった大将軍というところまで、よく歩いて往復した。子どもの足で30分くらいかかったのだろうか。今だに夢でその細い道に迷い込むことがある。等持院はその途中にあった。今は庭園を観賞するのに入場料が要るようだが、当時は誰でも自由に出入りができたのだ。たまに学校の帰り道、ふらりと庭に入り込んで友達とおしゃべりをしていた。

あれは何年生ごろなのか、よく思い出せないのだが、同級生なのに、私よりうんとしっかりしたミッちゃんが言った。

「ね、明日の朝早く、等持院の池に行こう。はすの花が咲くとき、ポン!って音がするんやて。その音、聴きに、いこ!」

「何時ごろ?」

「わからんけど、夜が明ける頃や。暗いうちから出かけて待ってよ。」

「今日は、はよ寝なあかんね。」

そんなに朝早く起きられるか心配だったけれど、起こしてもらう約束をして、次の朝、まだ薄暗いうちから、等持院の池に向かった。ミッちゃんはもう来ていた。

私たちは、はすの咲いている池のまわりをぐるぐる回って耳をすませた。池は私たちの立っている場所より一段低いところにあって、ところどころに薄桃色の花が咲いていた。

「今日、開きそうな花をさがそ。」ミッちゃんに教えられて必死ではすのつぼみの桃色をさがした。だんだん空が明るくなってきた。池を取り囲んでいたしーんとして、少し冷たい空気が溶けてきた。

しばらくして、私たちが期待していたような大きな音ではなかったけれど、ボス!というような音がして、二人で顔を見合わせた。

「した!!」

あとで考えたら、それは池の魚が跳ねた音かも知れなかった。でも私たちははすの花が開く音が聴けたと大満足で等持院をあとにした。

その頃、これが足利尊氏が1343年に建てた禅宗のお寺(別院北等持寺)だとか、足利歴代の将軍の像が飾られているとか、そんなことはつゆ知らなかった。子どもが出入りしても叱らないやさしい住職さんがのんびりお寺を守っておられたのだろう。

984008701_3   (2008年 小学校同級生 S君撮影 )

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懐かしの京阪沿線

2008・7・18

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小さい頃大阪へ行く時はいつも、西院から阪急電車に乗ったので途中の駅名もほとんど憶えていた。でも、今振り返ってみると、結局私に一番縁が深く、様々な思い出が残ったのは、やっぱり京阪電車のようだ。

先日、父のお墓参りに行くため、大阪淀橋から京阪電車に乗ったが、窓から見る風景に遠い昔を思い出し、あらためて自分がこの電車によく乗っていたのだと気づかされた。

(私の思い出は京都から・・・)

現在は出町柳が京都側の終点だが、昔は「三条京阪」だった。ここから琵琶湖大津の方へ向かう京津電車も出ていて、いかにもターミナルという感じだった。三条京阪の改札を出ると、そこから左手に三条大橋が見え、真正面には数軒のおみやげやさん、右手にはバスターミナルと京津の線路が見えた。今は電車が地下にもぐっているので、これは、私の記憶の中の風景である。

大学時代は京阪を利用していたので、行き帰り、電車の中で友達と交わした会話の思い出は山のようで、今、比較的無口なのは、あの頃にあまりしゃべりすぎたのではないかと思うくらい、あれこれよく話をした。でも、不思議なことに、その頃の友人たちとは、いまだに縁があって交流し、たまに会うと、昔と同じく延々と話し続ける。電車の中で一人が立ち、一人が座って見上げながら話したときの表情、揺れながらみんなで顔を突き合わせ、夢中で話し込み、電車が終点に到着したのに気づかなかったことなど、瞬間瞬間のことが鮮明に頭をよぎる。1900ltd4_2

「深草」には、伯母の連れ合いの妹さんが住んでいた。その息子さんにしばらくピアノを習っていたので、この駅もよく憶えている。小学生の時、初めての訪問では、家がわからなくて一軒、一軒表札を確かめながら探したのだが、夕方だったのか、西日が赤く照りつけて、あたり一帯が異次元の世界のように感じられ、心細かった。だからやっと見つけておばさんが「よくわかったわね。」とにっこり迎えてくれたときは、とても嬉しかった。

  Hashimoto_3                                                                      

「橋本」、「八幡市」あたりは、今も昔とあまり変わらないのどかな風景だ。このあたりは、嵐山方面から流れてくる桂川、琵琶湖からの瀬田川→宇治川、そして三重県鈴鹿山脈に源流を持つ木津川と三つの河川が淀川に合流する手前で車窓からもその堤防の風景が続く。電車が木津川の鉄橋を心地よく渡り始めると、また思い出すことがある。大学1年の夏、私たちは天橋立で行われる水泳合宿に参加しなければならなかった。そこで1週間、特訓されたあと、最終日には、全員が3キロの遠泳に参加するというのだ。今まで50メートル以上泳いだことがなかったので、不安だった。そんなある日、小、中学生時代、中耳炎が持病で水泳をしたことがないという友人が「泳ぎを教えて・・・」と言ってきた。私の思いついたのは、父といっしょに時々出かけた八幡水泳場だった。 1900ltd59_3  木津川なので、学校の帰りにすぐ行ける。私たちは学校を早引きしてお昼前から木津川を目指した。確かもう7月に入っていて太陽が照りつける暑い日だった。友人が「私は人が見ているところで泳ぎたくない・・」というので、それなら・・・と私たちは水泳場から離れた川べりを目指した。草がのびて、道もわからないようなところをかき分け、やっと岸辺にたどり着いた。ちょっと水量が多いような気もしたが、浅瀬が続いているところで、夕方になるまでバチャバチャ思いっきり練習した。後年、再会したその友人もはっきりとあの日のことを覚えていた。

 そして電車は大阪府に入り、今、従姉と叔母が住んでいる「樟葉」に向かう。おっと、少し戻って「中書島」ここから京阪宇治線が発着している。この線にもよく乗った。私を東京に呼んだ伯母が晩年京都に戻り、亡くなるまで10年間、木幡に住んでいたのだ。「京阪六地蔵」や「木幡」そして今父が眠っている「黄檗」そして宇治平等院や伯母が眠っているお寺には終点の「京阪宇治駅」・・・もう今は三条京阪への直通電車はないそうだが、昔も今もローカルな雰囲気は変わらない。

  京阪電車の車体の色は昔とあまり変わらない。しかし車両はどんどん新しくなり、私の青春時代に走っていたものは1900系のみになってしまった。現在は最新特急8000系。ダブルデッカー、テレビ付の車両だが特急料金はなし。大阪京都間の料金もJRよりうんと安い。昭和55年には置石による脱線事故もあったが、いつまでも安全な市民の足として活躍してほしいと願っている。               

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(写真は「京阪電車」のサイトよりお借りしました。)

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思い出に残る庭 その2

2008・6・20

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祖母の庭

前回のデンマーク王立図書館の庭も、今は建物も新しくなって、私が見たものとは違う姿になっているようです。

そして今日ここに書く「祖母の庭」も現実にはもう存在しない私の記憶の中だけの庭になってしまいました。父方の祖母「訓」(くに)は色白の小柄な人で、奈良小町と言われたとか鼻筋の通ったクールな感じの美人でした。(私は全然似ていない!笑)でも、小さいとき親戚に養女に出されたとかで、ちょっと孤独な雰囲気の無口な人で、私は祖母が大声をあげて笑った顔を見たことがありませんでした。そしてみんなもそんな祖母のことを「冷たい人・・・」と影で言っていたように思います。確かに祖母は人に合わせてその場を盛り上げたりする気遣いはいっさいしない人で、おせじも言わず、さりとて人の悪口も言わない淡々とした感じの人でした。

009111_2  私は小学校4年生から大学の2年まで約10年間その祖母と一緒に暮らしました。さて祖母が大切にしていた庭の話でした。庭と言っても玄関側の庭には松、さるすべり、柘植、南天、千両などの決まりきった木と石灯籠があったので、祖母が自由に花を植えられるのは裏庭の小さな一角だけでした。しかし、そこは日当たりがよく、節約家の祖母がせっせと米のとぎ汁をそそぎ、土も肥えていたのか、寒い冬を除き、いつも花が次々と咲いていました。今、名前が言えるのは、コスモス、ダリア、菊、なでしこ、おみなえしのような黄色い花・・・なかでも印象的だったのは、正しい名前かどうかわからないのですが、祖母が「吹き上げ草」と呼んでいた白とピンクの日々草に似た形の花です。この花は長い期間、次から次へと、そう、まるで吹き上げるように、花を咲かせるのです。

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今思うと、もう6人の子育てが終わり、祖母は自分の時間がやっと持てるようになった時期だったのでしょう。花壇のへりにせっせと石やれんがを積み上げ、手ぬぐいで頬かむりをして(日焼けをきらっていたんだ・・・)草むしりをし、咲いた花を切っては、小さな花瓶に生けて楽しんでいました。誰もいない午後、孫の私と二人の時間はのどかで、きっと祖母にとっても心地よい時間だったと思います。水やりを手伝ったあとは、縁側に腰掛けて、二人で水羊羹などをいただく・・・。これはきっと、私がまだ小学生の頃だったのでしょう。中学に入ると毎日夕方まで学校で、もう祖母の庭のことなど、眼中にはいらなくなっていたと思うので・・・。

振り返るとほんの数年間のことだったのに、私は後年、よくこの「祖母の庭」のことを思い出すのです。米ぬかやだしじゃこの栄養で、つやつやとした葉っぱと鮮やかな色の花を咲かせていた小さな花壇・・・ちょっとさみしい祖母がとても愛していた草花だけの小さな庭・・・。

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思い出に残る庭 その1

2008・6・17

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ガーデニングショウを見て思い出した庭のことを書こうと書き始めたものです。ちょっと間があいてしまいましたが・・・。

デンマーク王立図書館の庭

 私が初めてヨーロッパの地に降り立ったのは、コペンハーゲンの街でした。そこで、懐かしい哲学者、キルケゴールに出会ったのです。朝一番に訪れた王立図書館の庭には、5月のバラが咲き競い、明るい陽射しにあふれていました。バラのアーチをくぐりながら、友が言った言葉は、今も耳に残っています。

「ああ、わたしたち・・・今、ヨーロッパにいるのよ。夢みたい・・・・」

 その頃、ヨーロッパには、アンカレッジまわりで、乗り継ぎ時間も入れると、現在の倍近くの時間がかかったので、本当に遠いところに来たんだ・・・という感じがしたのです。

 王立図書館の庭は、バラを中心に、色も形もたくみに構成されたいかにも西欧風といったシメトリックな庭でした。でも、ここが心に残った一番の理由は、キルケゴールが庭の片隅で、いまなお思索にふけっていたからです。彼はやさしい眼差し、上品な風貌で、両足をお行儀よくそろえ、その死から10年後の世界をじっと見つめていました。

0005 学生時代、半年以上にわたってキルケゴールについての講義が続いていました。「あれか、これか」「おそれとおののき」「反復」「哲学的断片」「不安の概念」・・・「死に至る病」毎週毎週キルケゴール・・・私にはこの実存主義開祖の哲学は理解できなかったのですが、一番愛していた女性、レギーネ・オルセンと人生を歩むこともできず、ひたすら思索と著作活動に身をすり減らしたこの哲学者の人生はなんだか印象に残っていました。彼が42歳で息をひきとったとき、そばにいた甥のルンは、やっと彼が憩える時がきたと胸をなでおろしたそうです。

 私はキルケゴールとだけ写真を撮り、それも今は古ぼけてしまいましたが、あの5月のバラの上をさわやかな風が吹き渡っていた美しい庭は、あざやかに心に残っています。

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サーカスがやってきた

2008・3・23

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 かの有名な木下大サーカスがすぐ近くにやってきた。2ヶ月以上前、この情報を郵便局のチラシで見てから、「絶対、孫を連れて見に行こう」と決めている。

 私はこれまでこのサーカスを3度見ている。始めははっきり記憶にないが、まだ京都に住んでいた小学生の時だ。そして2度目は、確か明治神宮の近くにテントを張っていて、小学生の息子達を連れて見に行った。3度目は、一昨年、友人が招待券をもらったからと誘ってくれたのだ。

 サーカス・・・子どもの頃、あの空中ブランコや玉乗りなどスリリングな芸をするのは、どこかからさらわれて来て無理やりに仕込まれた人たちなのだと、大人たちは言っていた。

 だから夕方、暗くなるまで遊んでいると「ほら、子取りがきて、さらわれるよ。サーカスに売り飛ばされるよ。」というのが口ぐせだった。だから、サーカスでは鞭をもったこわい人がいてさらってきた子ども達をビシン、ビシンとたたきながら、あの難しい芸を教え込むのだと信じていた。

 あるとき、そのサーカスがやってきて、見に行けることになった。会場に入る前はどきどきした。もしかしたらサーカスの人が私に目をつけるかも知れない。だってでんぐり返しも逆立ちも大得意なのだから。

 大きな広い会場だった。私の目の前に空中ブランコ用の網がダアッーと貼ってあり、左手には、鉄の大きな丸いかごがデンとあった。会場が暗くなりざわついていた人々がシーンとなると、ああ、今でもはっきり見える、右手の少し高くなった壇上にひらひらの白いドレスのピエロが現れて身体をしなやかに動かしながらおどけた動作でみんなを笑わせたのだ。吸いつけられるように見ていたら、今度はライトがブルーになって白のドレスも青くなった。白ぬりの顔に大きな口、先にボンボンのついた三角帽子・・・ピエロは天井に向けて祈りを捧げるような姿勢でしばらく静止してから、今度はくるっと宙返りをした。会場は拍手喝さい・・・ああ、なんてすごいんだあ・・・私はうっとりしていた。

 その日、ひやひやする空中ブランコも、猛獣使いの芸も、かごの中を走るバイクも手に汗をにぎって見たのだけれど、私の頭の中はあの魅力的なピエロの姿でいっぱいだった。怖い子取りの話など、もうすっかり忘れてしまって、その後しばらく、ピエロの絵を集めたり、鏡に向かってあのピエロのパントマイムを真似したりしていたと思う。子どもの頃に見たサーカスは夢のかたまりだった。

 一昨年、何十年ぶりかでサーカスを見た。ライトやテントの装飾、衣装など、それは何十年も前とは比べものにならないくらい進歩していたに違いない。やっぱりピエロが登場した。昔に劣らぬ柔軟な動作、そして満面の笑み・・・でももう私には営業スマイル、ご苦労様・・・としか見えなくなっていた。当然のことながら、もう夢は見られない。悲しいなあ・・・年をとるのは・・・。このときほど痛感したことはない。

 でも、孫は夢を見てくれるだろう。そして私の子どもの頃のサーカスのように、いつまでも心に残していてくれれば嬉しい。

Kaijyo

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夜行急行「銀河」の思い出

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2008・3・7

昨日の新聞に「銀河の旅 最終章」という見出しで約60年にわたり、深夜の東京~大阪間を走った寝台列車の廃止が伝えられていた。新幹線、深夜バスに押され、乗客が少なくなり、閑古鳥が鳴いていたという。設備も旧式で、運賃も高い、仕方のないことかも知れない。朝一の会議に出るビジネスマンたちが利用していたようで、懐かしむ人も多く、最終運行のチケットは30秒で完売だったとか。

この銀河に一度だけ乗ったときのことを思い出した。大阪に本社のあった会社に勤めていた夫はたまに利用していたが、一度、息子達に体験させてやろうということになったのだった。

その頃、鉄道に少し興味を持っていた息子達は、大喜びだったが、寝台列車というものに、初めて乗る私自身も内心、期待に胸を膨らませていた。いつもは新幹線で行く関西に今回は寝台急行で行く・・・夕方になって家を出発し、東京駅のレストランで食事を済ませる。なんだかわくわくするスケジュールだ。食事が終わってもまだ8時過ぎ、午後11時発車の時刻までたっぷりと時間があった。

待ちくたびれる頃、ようやく青い車体の列車がホームに入り、乗り込むことができた。切符に記された座席を探し、「あ、ここだ!」と駆け込む。息子達は「上はどうだ?」「下はどうだ?」と落ち着かない。

やがて列車がゆっくりと動き出した。1時間ほどしてやっと息子達が静かになった。でも、私は眠れない。うとうとすると、ふと目が覚め、止まっている列車に気づく。列車は時間調節なのか、何回も止まりながら夜中の東海道を走って行った。眠っていないつもりがいつの間にか気づくと薄明るくなっていて、コトコトと単調な音は続いていた。息子達も目覚め、列車は早朝、大阪駅に到着した。「う・・うん。ブルートレインはねむいね・・・・」みんなであくびをしながらホームに降り立った。寝台列車に乗ったのは、あの時一度だけで、もう30年も前のことなのに、とてもはっきりと思い出す。

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雛の思い出

2008・3・1

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kazさんのメールにお雛様を眺めながら今度お嫁に行かれるお嬢さんの初節句を思い出しています。・・・・と書かれていた。なんだか私もしみじみとした気分になってしまった。

 うちには女の子は生れず、孫も男の子だったので、お雛様を飾るチャンスはなかった。

 でも思い出す雛がある。それは、祖母の雛。祖母は6人の子どもに恵まれた。女、女、女、男、男、女だった。だから2月の末になると例年、雛壇が出され、人形を飾っていた。でも、私が小学生の頃には、末の叔母だけであとは皆、嫁いでしまっていたので、雛を飾るだけで、それは単なる習慣のような感じだった。おまけにうちの雛たちはみんなとても古めかしかった。人形の入っている木の箱も古く、五人囃子の一人は首が傾いでいた。着物も色が褪せたように今でいうパステルカラーのような淡い色・・・。私はお雛様を箱から出しながら、うちもサッチャンの家のように鮮やかな着物のお雛様だったらいいのに・・・と思っていた。

 サッチャンは近所の同級生の仲良し。一人娘として大切に育てられていたサッチャンのおうちには真っ赤な毛氈の立派な七段の雛飾りがあった。そして桃の節句には、サッチャンのおかあさんが「うちに来てね。」と呼んでくれた。甘酒やひなあられ、それにおすしなどのごちそうをいただき、思いっきり遊んで幸せな一日を過ごした。いいなあ・・・サッチャンは・・・とうらやましく思っていたけれど、サッチャンの家族はおじさんもおばさんもやさしくて、母のいない私を可愛がってくれたいい人たちだった。

 後年、叔母からうちにあったあの古いお雛様の話を聞いた。あれは、祖母がその母からもらったお雛様だったのだ。祖母は小学生の頃、養女として親戚のうちにもらわれて行ったので、本当の母からもらったそのお雛様をとても大切にしていたのだそうだ。「もっと丁寧にやさしく出してやってな・・・」と私が面倒くさそうに箱から出していると祖母が言ったのを今思い出し、反省している。だから私は雛に縁がなかったのか・・・。

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キャンドルの魅力

2007・12・25

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昨夜、NHKの番組でフィンランドのサンタクロース村からの中継をやっていた。ここから一歩足を踏み入れると北極圏という場所で、降りしきる雪の中をトナカイが走り、子ども達が嬉しそうにはしゃいでいた。カメラがひくと北欧の建築物、そして針葉樹林・・・まさに子ども時代、毎年夢にまで見たサンタクロースの国だった。今は一番夜が長い季節だからもうすっかり日は暮れて白っぽく薄暗くなっている。この不思議な暗さと明るさがなんかぞくぞくするものを感じさせる。

私が北欧を旅したのは5月だったので、午後11時くらいまで明るく、夜明けは午前3時ころから始まった。初めての夜はやっぱり暗くなるまで眠れず、また明るくなると目が覚めてしまった。しかし、人々の生活はみんな長い長い冬を基本に考えられていた。建物はもちろん、家の中の家具、食器なども長い冬を楽しく暮らすためにいろいろと工夫されていた。中でもキャンドルには心を惹かれた。ゆらゆらと揺れるオレンジ色のほのおを見ながら、お酒を飲み、食事をし、語り合う。なんだかロマンチックな雰囲気だ。北欧の人々は薄暗い冬の季節をこのあたたかいほのおに慰められて生きてきたのだ。夏の明るい夕食どきにも、どのテーブルにもキャンドルの灯が揺れていた。様々なデザインのキャンドル立て、キャンドルグラスボール・・・・お店というお店、どこにでもキャンドルグッズはあふれていた。コスタ・ボーダのグラスボールを重いのに5個ほど買ってしまい、おまけに薄桃色のきれいなろうそくも1ダース買って帰った。

しかし・・・我が家に帰ってくると、キャンドルのロマンはちょっと遠くなってしまった。周囲の家具、窓、食器、テーブル、そして料理すべてが、なんだかキャンドルの明かりで食事をするという雰囲気にはなっていなかった。5個のうち、4個は友人にあげてしまい、今残りの一つは飾り棚にしまってある。そして、そして、スウェーデンからがんばって下げて帰ったろうそくの箱のレッテルには「かめやまろうそく」と書かれていた!!

ああ、でも私のキャンドルロマンはまだまだ生きている。いつかまたこの明かりが似合うシチュエーションを作り出して食事を楽しもうという夢は棄ててはいない。

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 謎ときの話 (1)天津の記憶

2007・10・30

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私の古いアルバムのはじめには、1,2歳の頃にいた天津での写真が7,8枚貼られていた。装飾の施された石の階段を背に三輪車に乗っている写真、父のアコーデオンの横にバンドネオンを抱いて座っている小さな私の写真、母と手をつないで散歩をしている写真・・・

これらの写真は何度も見たけれど、自分の記憶にはほとんど何も残っていなくて、ここは天津というだけで、なぜ私がこんな大きな家に住んでいたのか、父がどんな仕事をしていたのか、私たちは何故天津に行ったのか、たくさんの?は私の胸の中だけにくすぶっていた。「郷愁の風景」で書いたように、私の両親はこの数年後、離婚したので、この時代についての話はタブーのように思っていたからだった。

半世紀を経て母と私が再会し、昔話を聞き、これらの謎はするすると解けてきた。またそこには、私自身の記憶にない数々のエピソードもあって、笑ったり驚いたりした。

シナ事変でつらい兵役を体験した父は、再び戦争に参加するのが嫌で(母の憶測)S海上の海外駐在員となって天津に行ったそうだ。半年後、母と私は呼ばれて中国大陸に渡った。母は列車に乗りながら、一昼夜万里の長城が続く風景に圧倒され、アカシヤの並木が無限に続くスケールの大きさに感激したという。天津に着くと、父はS海上をやめ、友人と会社をつくって商売を始めていた。友人の紹介でフランス租界に住み、メイドさんも7,8人いたそうだ。母は、昔の女で何も訊くことはできなかったそうだが、父は外車を乗り回し、贅沢な暮らしをしていた。日本に帰ってきての私が知っている父は世渡りの下手な不器用な人としか思えなかったので、そんな話を聞いて父のいったいどこにそんな才覚があったのかと不思議な感じがした。

奈良の田舎育ちの母はそこで数々の体験をした。黄砂の季節に備えて窓は三重になっていたが、風が吹く季節には、窓枠は一日で砂の層に埋められてしまうのだとか。しかし、ある日、ぴたっと風がやむと、明るい陽射しが降り注ぎ、アカシヤが一気に芽吹く。それは見事な風景で、今も目に鮮やかに蘇るという。家の前の道を行くと、右側にはカトリックの学校、左側はフランス公園、フランス租界とイギリス租界の間にはヴィクトリアロードという広い道があり、その歩道をサングラスをかけた2歳の私が母に手を引かれて歩く写真が残っていた。母も少し生活に慣れてくると人力車で、買い物に出かけられるようになった。車夫さんに「ウー、ゾゥー」と言えば右に曲がってくれ「サー、ゾゥー」と言えば左に曲がってくれる。母はそうして友人も少しずつ出来てきたという。天津と神戸は1973年に友好都市になっているので、神戸にも数人、天津時代の友達が住んでおられる。

私も中国人のボーイさんやアマさんに遊んでもらい、中国語をすぐ覚えたらしい。電話がかかってくると、椅子の上によじ登り、受話器を取って「センザァイ、ジャングイ、メイヨ!」(ただいま、主人は留守です。)と答える。ジャングイというのは、天津地方の方言なのだとか。

 しかし、その夢のような生活も長くは続かなかった。(つづく)

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望郷の思い

Kusatu_1 (琵琶湖・・・対岸から三上山を望む  S君撮影)

2007・4・16

ふるさとを離れて異なる土地に住むようになった者にとって、ふるさとの山や川は限りなく懐かしいものである。そこに住んでいたときには、それほど感じなかったのに、離れて見ると、そこはとてもすばらしい場所だったような気がしてくる。特に、もうそこには、戻れないのだ・・・とわかったときはなおさらその思いは強くなる。

「郷愁の風景」を書いていて、再認識したことは、私の心の中にあるあの風景は、今、同じ土地に戻ってももうないのだ・・・ということだった。

夫の故郷は滋賀県、琵琶湖がすぐ目の前にあり、子ども時代には、まだきれいだった琵琶湖で魚を捕ったり、泳いだりしたそうだ。近江平野は稲作地帯なので、初夏から夏にかけては田んぼの緑が心地よく、平野の中にいつもはっきりと見えた近江富士(三上山)の姿は、ことさら懐かしいらしい。もう今はつぶしてしまった茅葺ぶき屋根の実家の写真を日本画家のところに持っていって描いてもらった絵の中に、方角からしたら、本当は見えないのに近江富士を描いてもらったくらいだ。

私たちは関西出身なので、老後は関西に帰るつもりでお墓も購入した。しかし、息子達の生活基盤は東京にあり、故郷では我々の知っている世代の方たちはだんだん少なくなり、次世代に移行している。帰っても懐かしい人たちはもういない。やっぱり東京で最後まで暮していこうと決めた。私たちの思い描くふるさとは、もう現実には存在しないのだ。すべて心の中。

関西と関東、距離にして530km離れているだけで、こんなふうに感じるのだから、遠く異国の地で骨をうずめる決心をした人の望郷の思いは、これまた格別だろうなあと思う。アメリカにもオーストラリアにも、イギリスにもデンマークにも、ドイツにもフランスにもスウェーデンにも、そこに骨をうずめる決心をした日本人(出会った人は女性が多かった。)がいた。アジアの諸国にも南米にもたくさんいるだろう。そうそう、Kamichanが旅したアイルランドでは世界中に散ったアイルランド人の望郷の地がタラとあった。

・・・・とここまで書いてNHK「新シルクロード・炎の大地コーカサス」を見た。アルメニア、アゼルバイジャン・・・たび重なる戦禍にふるさとを追われ難民となった人々の様子が映し出されていた。もう帰れないふるさと、帰っても戦争ですっかり廃虚と化してしまったふるさとの姿・・・そんな人々がふるさとを思う強い気持ちは、想像するだけでも胸がしめつけられる。私のは贅沢、贅沢。

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