日記・コラム・つぶやき

南田洋子さんの死 (Non)

2009・10・26

Nakagawa_113_2

あの美しかった南田洋子さんが認知症になられ、夫の長門さんが介護されているという話は少し前から報道され、知っていた。南田洋子さんは私が中学生時代には、もう銀幕のスターとして華々しく活躍されており、水泳もお得意だとかで、水着でボートから飛び込むシーンも代役なしでこなされ、すごいなあ・・・と思っていた女優さんだ。

美しい方は年を経て老化していく姿をみんなに見せたくないと、さっと大衆には見えないところに引退してしまう方も多い。でもかのオードリー・へップバーンがそうであったように、このご夫婦は、年老いた姿も自然のままに見せて、お芝居の世界だけでなく、現実の人生の姿をさらけ出して生きておられ、親しみが持てる。

夫の長門さんが洋子さんの死を「こんなにもむなしく、こんなにも悲しいものとは・・・」と嘆き「でも、僕のすばらしい思い出の中で、洋子は生きている。これは永遠のもの」「洋子は、私を信じて、待ってくれているただ一人の女性だった・・・」と涙しておられた。長門さんは役者さんなので、感情そのままを表現されているのだろう。普通人には言えない、言ってもらえない言葉だけれど、心の中は、同じだ。長い人生で苦労をともにし(いろいろあったなあ・・・)、何より与えられたこの世の時間のほとんどを自分のために使ってくれた相手なのだから。

南田洋子さん、あの世からも長門さんをずっと見守っておられることだろう。あのえくぼの可愛らしい笑顔で。  「仲良きことは美しき哉」

| | コメント (0)

祈り (Non)

2009・9・27

00000357_2 Imgp9592_3 

先日、親しい方の息子さんが突然の事故で亡くなられた。あまりに急なことだったので、みんな驚き、誰より一人息子を亡くした母親が現実を受け入れがたく、もうお通夜もお葬式もすんだけれど、心は宙に浮いたままなのだ。ただの友人である私もこのごろは、気づいたらその親子のことを考えている。

秋の庭 銀みずひきに 光揺れ

 すがしく生きた きみは帰らじ

おふくろ・・・今朝バイクで出勤したときは、もう自分がこの家に帰れないなんて露ほども考えなかった。犬にえさをやり、庭木に水をやり、昨日やり残した庭仕事は、帰ってから続きをやろうと道具はそのまま出しておいた。すべてがいつもの朝と同じだった。

ああ、でもあれは一瞬の出来事だったのだ。僕は何を考えていたのだろう。ちょっとした心の隙があったのかも知れない。あっと思ったときは、木が吹き飛んで足場がぐらつき、のこぎりが回転する中に倒れこんでしまっていた。大きな声をあげたけれど、あたりには誰もいなかった。

薄れていく意識の中で、僕が考えたこと・・・それはおふくろのこと・・・・。五連休には、二人で久しぶりに旅に出ようと約束していた。木曽路を通り、奈良や京都にまで足を伸ばそうと計画していた。おふくろはうれしそうに言った。「もうこんな機会はないかもしれない。私も年をとってしまったわ。そうそう、ホテルで聴いてほしい音楽があるの。私が一番好きな音楽・・・・私のお葬式には、この音楽を流してほしい・・・。あなたにも聴いておいてほしいから持って行くわ。」

その音楽、グレゴリオ聖歌は、なんと僕の葬式に流れることになってしまった。おふくろ・・・許してほしい。

父さんが学者だったからって僕にもみんなは勉強を期待した。でも僕は勉強より、走り回ることが大好きで植物や動物を心から愛する子どもだった。おふくろはそんな僕を理解してくれ、応援してくれ、名誉とは程遠い職業を選んだときも喜んでくれた。

僕は思っていたより短い時間しか生きられなかったけれど、まあ、幸せな人生だったと思っているよ。心残りは、おふくろと、あの未完成の庭、そしてM(犬)のこと・・・。

僕のうちを訪問してくれた人たちはみんな言った。「まるで高原の林の中にいるようですね・・・。」大きな硝子窓の外はシラカバやサンシュユ、サンザシ、イボタノキ、ミズキ、ユスラウメ・・・下草には僕が大好きな銀ミズヒキ、アキノキリンソウ、フタリシズカ、ユキノシタ、ギボウシ・・・この土地に合わないで難しかったのもあったけれど、だんだん僕の庭になりつつあった。毎日、来る季節の変化を考えながらどんな木や花や草を植えるか考えるのはほんとうに楽しかった。

この庭を見るたびに僕を思い出すおふくろが可哀想だけれど、どこにいても、おふくろは僕のことを思い出すだろう。いや、僕がこの庭からおふくろを見守っている。

おばちゃんが「お別れの言葉」で言った。「ああ、この親不孝者!ぶんなぐってやりたいよ。・・・・でも安心して・・・おかあさんは守ります。」本当に、僕は自分がいつかおふくろを送る日のことを考えていた。それなのに、おふくろを一人、おいてきてしまった・・・。ごめんよ。おふくろ・・・・。」

この世で一番悲しいできごとを体験した友人・・・周りの者に何ができよう。このとてつもない悲しみにひたすら耐えていくしかないのだ。それを思うだけで胸がしめつけられる。

「神は耐えられない試練は与えない」というけれど、それにしても厳しい仕打ちだ。私たちがこれからどんなに苦しいことに出合っても、友人の悲しさ、苦しさを思えば耐えられないものはない筈。

ご子息様の魂よやすかれ・・・母を守りたまえ!Img_20086061_4

| | コメント (4)

ある冷静沈着な人の話  その2

2009・8・5

次の朝、またみんなは、朝早く職場にかけつけた。テレビ、ラジオのニュースも注意して聴き、新聞も細かいところまで読みこんだ。新聞に載っていたのは、彼と同じ場所から滑落し、川に落ちたK大の学生が6キロも下流のダムで命をおとしていたのが発見されたというニュースだった。「ああ・・・もうだめか・・・」と思ってみんなが無口になっていたそのとき、電話を受けた人が大きな声をあげた。

「それで、本人は、無事なのですね!!!怪我も軽い?!」

わあ!!!!と歓声があがり、そばにいるだれかれかまわず抱き合って喜んだ。

「だれだ?葬式の用意なんて言ったのは!!」Images_3

数日後、両腕に包帯をした彼が現われた。ほかにどこも悪いところはなかったようだ。

これは彼が私たちに話してくれた、濁流に落ちたときの話。

「ぼくがその崖の下にさしかかったとき、前を歩いていた人が気をつけろ~~と叫んでいたんだけど、あっという間に足元がくずれ、10メートルほど落ちて気づいたら激しく流れる川の中でした。いつもは川幅が10メートルくらいのきれいな川なのに、そのときは、もう向こう岸が見えないくらいの大きな流れになっていました。

川に落ちた僕は最初に急いで息を吸って水の中にもぐり、肩にしょっていたリュックをはずしました。そしてリュックで頭を保護しながら、そのまま流されて行ったのです。川の中には大きな流木や石が流れていてそれが頭にぶつかるとやばい!と思い、一生懸命、頭をリュックで保護しました。さいわいリュックは浮いてくれ、そのままあとで調べたら5キロほどは流されて行きました。

余分な体力は使わないように流れに身をまかせていたのですが、10分位した頃、急に流れがゆるくなったのに気づきました。う、これは川がカーブしたところにさしかかって、今自分はその内側を流れているんだとわかったので、今だ!と全力で川岸めざして泳ぎました。やっとの思いで浅瀬に倒れこみ、息を整えてから、リュックの中に入れていたウイスキーを出して飲みました。身体が冷えていました。次に眼鏡がどこかに流れて行ったので、用意していたもう一つの眼鏡を取り出してかけ、送電線を目当てに歩き始めました。

40分くらい歩いたところで、変電所の人に発見され、小屋に連れて行ってもらったのですが、電話もきれ、村への道も橋が流されてしまい、とにかくそこで身体を温め、保存食を食べ、3日間を過ごしたのです。みんなが心配してくれているだろうと気が気ではありませんでしたが・・・」

彼の腕には無数の傷がついていた。流木や石がぶつかったのだ。でもリュックが頭を守ってくれた!普通は川に落ちた時点で、慌ててパニックになり水を飲んでしまい、気を失ってしまうだろう。すごい人だなあ・・・。運がよかったと言えるかも知れないが、彼だから、冷静、沈着な彼だから助かったのだとみんな考えた。

 その彼は今、冷静、沈着に選んだ女性と幸せに暮らしている。

| | コメント (4)

ある冷静沈着な人の話  その1

2009・8・3

13akaisidake

私は何か困ったことが起きると、それに囚われてすぐパニックになってしまいがちな性格なので、およそ「冷静・沈着な人」とは縁遠い人間だ。それだけにどんな状況においても、落着いて対処できる人を尊敬してしまう。

私が出会った中で「冷静、沈着な人」といえば、やっぱり彼を措いてはほかに思い当たらない。彼は職場の仲間で、私より15歳ほども若い人だった。

当時、まだ大学を出て数年しか経っていない若者だったが、彼の言動を見ていると、なんか私よりずっと年上の人のような感じだった。仕事は速く的確で、かといってたまには冗談を言って笑わせたり、それとなく他人の手助けをしたり、実に心憎い奴(失礼!)だった。

その年の夏休み、8月の半ば頃にきた台風が中部地方に上陸し、大荒れの数日が続いた。

私たちはニュースでその様子を見て、「たいへんだなあ・・・」とため息をついたけれど、それが身近な人を巻き込んでいるとは、そのときまだ知らなかった。台風が行ってしまった数日後の夕方、職場から緊急集合がかかって出かけた。職場ではみんなが暗い顔を寄せ合い、ひそひそと話していた。聞くとあの彼が赤石山脈の登山に出かけていて、崖崩れに遭い、濁流に流されて行方不明なのだという。もうその崖崩れが判明してから3日たっているのだそうだ。彼は関西出身の人だったが、ご両親も心配で現地近くに行っておられるようだ。もう落ちてから3日も経っていて何の連絡もないから、生きている可能性は少ない・・・と落胆しておられるとみんなが囁くように話していた。あと数日待ってだめだったら、葬式をすることになるだろうと誰かが言い、私たちは愕然とした。その日は夜11時頃まで職場で連絡を待ったが、情報は入って来なかった。

| | コメント (2)

二人の営業マン(Non)

Nakagawa_124_3   この辺りの住宅には、セキュリティーの設備が入っている。以前はそういうのはなかったので、最近になって夜やっとセキュリティーをかけて寝るようになったが、それまでは、ほとんど使ったことがなかった。帰ってきて3分以内に「在宅」ボタンを押さないと通報されるし、長嶋さんじゃないけど、あって無きがごとしだった.    半月ほど前、会社から電話がかかってきて「表示板が点滅していますが、何か異状はありませんか?」と訊かれた。特になかったのでそう言ったら「こちらの通報装置が点滅しているので、すぐ見に行きます。」と言われた。しばらくして会社の営業マンが来られ、ボードを点検してくれた。ふだん玄関、洗面所、食堂、居間・・・などの表示で隠れている裏側にボタンがあって、そこを小さなカードを見ながら押しているようだった。

「警報機はどこにありますか?」と訊かれ、最近は寝室においていたので、それを持ってきたら、「そこからの電波が届いていないようです。」という。「え?じゃあ、泥棒に入られて、これを押しても通報できないってことですか?」「そうです。とりあえず、点滅しないように、しておきますが、もう、古くなってきたから取り替えなくてはならないかも知れません。12000円くらいします。」「はあ・・・」心の中では毎月3150円払っているのになあ、自己負担なの・・・と思ったが、とりあえずなおしてくれたというので、「は、ご苦労様でした。」となり、その営業マンは帰っていった。

でも、なんだか変な気持ち。壊れかけているのだ、この機械、いざというときには、役に立たないかも。どうしたらいいんだろう。

それから1週間ほどして、また会社から電話がかかってきて点滅しているので、見に行くと連絡があった。今度きた営業マンは前と違う人だった。私は1週間ほど前にも来てもらった・・・と言おうとしたのだけれど、いや、この人はどこが具合が悪いというか、訊いて見ようとそのことを黙っていた。点検をすると、やっぱり警報機からの電波が届いていないと前の人と同じ答えだった。その人も「この機械はもう10年以上たっていますので、取り替えなくてはならないようです。」と言ったので、「毎月管理費を払っているのは、どういうお金なのですか?」と思い切って言ってみた。「それは24時間中、警備をしている費用です。でも、会社に帰って相談してみます。できるだけ費用を押さえられるように。

そのお返事は3日にします。そして4日には、新しい機械と取替えに来ます。その報告書を書きましたので、ごらんください。」

そして3日に連絡がきて、「玄関の左にある機械も具合が悪いようなので、点検修理し、警報機も新しいのと取り替えます。費用はすべてこちらで持ちますので、ご安心ください。」と連絡があり、4日には、修理、取替えをしてくれた。

比べたくないけれど、この二人の営業マンの仕事ぶりが随分違ったので、驚いた。同じ会社、同じ営業所からきた人なのに・・・・と。2枚の名刺を重ねてケースにしまいながら、一枚のほうには◎をつけておいた。(笑)

Nakagawa_132_2

| | コメント (2)

懐かしいスバル360 (Non)

2009.3.29

08_028_3   

最近、経済的ということもあってか、軽自動車をたくさん見るようになった。軽自動車といえば、父は生涯「スバル360」という小さな自動車を愛し、それ以外の車には乗らなかった。あのフォルクスワーゲンを真似たカブトムシのような独特のスタイルは、様々なドライブの思い出とともに今も記憶に残っている。

 私の青春時代、人々がマイカーを持つことができるようになり、急に車が増えた。我が家でも、父、母、そして弟と私以外はすぐ免許を取りに行き、初代のスバル360がやってきた。色はベージュ。この小さな車で、よくドライブに出かけた。北陸の海、大和路、そして早春の琵琶湖一周。

 「ここが琵琶湖の一番北の端よ!」滋賀で生まれ育った継母はいつでも元気一杯の人だった。キラキラと光る湖面を渡るまだ冷たい風に吹かれて、持ってきたお弁当を食べた。もう40年以上前なのに、まるで昨日のことのようだ。

 長男が3,4歳になって二代目のスバルがやってきた。そしてまた何年かたち、息子たちが小学生になった頃、またスバルだったが、今度は少し型が変化していた。

 こうして息子たちが成人し、私だけが帰郷するようになっても、父はスバル360に私を乗せて、京都と夫の実家(滋賀)を往復してくれた。

 「ああ、免許を取っておけばよかったなあ・・・」年をとってきた父を見て思ったが、もうおそい。自転車でもよそ見をしていて二度もぶつかった私に夫は

おまえが免許をとるとあぶない。」ととらせてくれなかったのだ。自分でも納得したからついに運転免許はなし。

 もうあのカブトムシのスバル360は見なくなったけれど、軽自動車を見るたび、懐かしく父を思い出す。

| | コメント (2)

苦い思い出の夢 (Non)

08_039_2 

2009・3・26

 もうすぐ同窓会だ。数年前からまた関東組が集まるようになり、今回は今まで来ていない人にも呼びかけ、大勢が集まることになった。

 先日、幹事さんからのメールに「○○さんも出席されます。」とあった。 

わあ・・・○○さんとは、高校卒業以来、一度も会っていない!!懐かしいなあ・・。

 彼女と仲良しだったのは、中学1年のクラスでだった。彼女と私、そしてもう一人Aさんの三人は入学後、すぐ意気投合し、行動をともにするようになった。しかし、その頃の私たちは・・・自分たちが一番優秀、自分たちに出来ないことなんて何もない、スポーツも、勉強も・・・とちょっぴり思い上がった3人組だった。毎日のように、放課後も一緒に遊び、たくさんたくさん話をした。

 担任は新卒の若い男の先生、クラスは女生徒たちが、二派に分かれ、事あるごとに対立し、いさかいが絶えない。

 ある日曜日、ついに先生は困り果て、私を呼び出し「おい、なんとかしてくれよ。」と言われたのだが、「え?私なんかに何もできひん。無理やわ。」と先生をがっかりさせてしまった。その後、このことは、なにかずっと心のしこりになって、今でもたまに夢を見る。

 もう一度、あの時代をやり直そうとしている自分が出てくる。しかし、「もっとちゃんとできるはず」の私なのに、何事も成就しない夢なのだ。

 彼女の記憶にあの時代はどのような姿で残っているのだろうか。今度会ったら、そっと尋ねてみようかなと思うけど、なんだかちょっと怖い気もする。

*********続編**********

同窓会の当日、初めてということで、紙に大きく旧姓を書いて、駅の改札口で友人と立っていた。

「きっと、わからないでしょうねえ・・・」

もう昔の風貌を維持している人はほとんどいない。(笑)

でも、彼女はちょっと早く到着していて、別の方向から待ち合わせ場所に来て、友人たちと談笑していた。

「こんにちは!」

「え?だれ?」

「ほら、Mですよ!」

「わあ・・・懐かしい・・・」

数分後、私たちはもう昔に戻ってあれこれ、思い出話に花を咲かせた。彼女のえくぼのある口元は昔のままだった。

彼女の記憶に残っていたのは、私とちょっと違った。よく衣笠山に登ったこと。

(そういえば、そうだった・・・私は山の楽しさを自慢するためによく仲良しを山に誘い、楽しい時間を過ごしたのだった。山に入ると私たちは役者のように別人になりきって、会話をかわし、想像の世界で思いっきり遊んだ。そして山から出て道路に一歩足を踏み入れたとき、現実の自分に戻る。ああ、そうだったなあ・・。山登りは最高に楽しい遊びだった。

 また私が英語の暗誦大会に出場したとき、彼女ともうひとりの友人も応援にきてくれたのだった。暗誦するのに「Dandelion」の発音がうまくできなくて何ども繰り返し練習したことは、覚えていたけれど、大会当日のことは、あまり記憶にはなかった。応援に来てくれたんだ・・・。ありがとう・・・。あの頃の私、きっと御礼を言ってないわよね・・・。

 卓球大会に出たときのことは、二人とも共通に記憶していた。神社の卓球台を大急ぎでとって、必死で練習したこと。だから今も温泉卓球より、ちょっと上級な腕前であること・・・。彼女の記憶はポジティブで、私はなんだかほっとした。あの時代、私たちは怖いもの知らずで、ちょっといばっていたけれど、意地悪ではなく、自分自身に必死で生きていたのだと思えてきた。

| | コメント (2)

アコママさんの雛 (Non)

2009・2・20

Obina Mebina2_2

「さいたまの自然フォトコンテスト」で特選に入ったアコママさんを囲んで祝杯をあげようと例の仲間が集まった。どこかの料亭にでも集まればよいのに、彼女のうちにおしかけた。それには、ちょっとしたわけがあったのだ。

私たちが東京に出てきて、お互いそんなことも知らず夢中で子育てや仕事に熱中していた時代のことだ。アコママさんは、お嬢さんのために木目込みの雛人形を作り始めたのだが、4人のお子さんを育てていた最中とて、完成を見ず、そのまま押入れに眠っていたらしい。昨年、その雛を取り出し、「この雛が完成したら、雛祭りをしようね。」という話になっていた。皆はそのことを半分忘れていたのだけれど、アコママさんはこつこつと木目込みを完成させていたのだ。木目込みが完成したのを知ったお嬢さんは、桃の花を持ってきてくれたのだとか・・・。

雛はぼんぼりの明かりに照らされて穏やかな笑みを浮かべていた。ほっぺがふっくらとしていて色白、「あなたに似ているね・・・」と思わずみんなが口をそろえて言った。

雛に見守られて、アコママさん思い出の食器や酒器でごちそうをいただきながら、楽しい語らいの時間が過ぎていく。家族に言えないこともここでは遠慮なく話せる。誰かが悩み事を出すと、皆が本音で自分の考えを出し、またそれに反論もでるけれど、仲裁の意見も出て、最後は総合して自分の中で判断する。そんな感じだ。

今日は雛もその仲間、やっと出られた晴れの舞台で、優しい眼差しを投げかけながら、私たちの話を聴いている。ああ、とてもすてきな雛祭りだ。

| | コメント (6)

年賀状だけの縁

2008・12・15

 

今年も12月半ば、年末にはいくつかのイベントが入っているので、早めに年賀状の準備をしなければ・・・と2008年の賀状を取り出した。今は昔ほどたくさんのやり取りはなくなったけれど、それでも長い間会わないのに、年賀状だけはやりとりしている友人や昔の仕事仲間がけっこういる。友人の中には、卒業以来、一度も会っていないのに、ずっと年賀状が往復している友もいて、なんだか不思議な感じがする。そういえば、年賀状受付開始のイベントで嵐の櫻井君が「年賀状だけでつながっている友」と言っていた。

上野千鶴子さんの本には、ほとんど会わなくてもなんとも思わない人間関係など「友」とは言わない・・・というようなことが書いてあったが、それでもお互いに相手のことを心のほんの片隅にでもおいているのは間違いないし、年賀状を書いたりもらったりするときだけでも、思い出しているのは事実だ。

人の縁というのは、不思議で、交流中にはこの人とは、後々まで友として縁があるかどうかよくわからない。長い時間や空間を隔てて再会して初めて、この人とは縁があったのだ・・・と思うのである。

先月も高校時代の友人13人の同窓会があったが、時間も場所も遠く離れた今になってまた同じ席でお酒を酌み交わすことなど当時は予想もしていなかった人たちばかりだ。でも昔からまた再びこうして交流できる設計図が組み込まれていたのだと言えなくもない。

してみるとこうして一枚の年賀状で細く長くつながっている人とも、今は自分の知ることのできない縁があるのだろう。今年も無事平穏に(ま、いろいろあったけれど)一年を過ごせそうなことに感謝しながら、新しい年を迎える心準備として年賀状を書くことにしよう。

| | コメント (2)

秤よ 秤、世界中で一番・・・・

2008・12・11

Nakagawa_096_2

先日、新しい体重計を買った。体重は小数第2位(kg)まで出るのと、体内水分量、推定骨量、体脂肪率、基礎代謝、体内年齢までが出る。以前違う秤ではかったら、体脂肪率が30%もあって、息子から「太ってなくても、内臓脂肪が多いんじゃないの?もっと歩いたほうがいいよ。」と言われたので、ちょっと気になっていた。

でも、今度の体重計では、何度測っても、体脂肪率は20%前後、(日によって少し変わる)一番気になる体内年齢は41歳と出た。「ふふ、この秤、ちょっとおべっかつかってるんじゃ・・・」と嫁に訊いたり長男に訊いたら、やっぱり彼らも実年齢よりうんと若く20代なのだという。

そうかあ。測ってみて実年齢より上に出たら、その秤、いやになっちゃうものね。そういうふうにできてるのよ。ほら、あの白雪姫に出てくる鏡・・・鏡よ 鏡、世界で一番美しいのはだあれ?っていうの、あれと同じ・・・」という結論に達していた。

 ところが、次男一家が遊びにきて体重計の話になり、早速測り始めた。子ども時代、青年時代はスリムだったのに最近メタボ化してきた次男が乗ってみると・・・なんと彼の実年齢とほぼ同じ体内年齢の数字が出た。「あら、この秤、おべっかつかいじゃなかったんだわ。ちゃんと正直、正直、」と大笑いになった。  

「あんた、たばこ、やめなさい!」

「それ以上、太っちゃだめ。」

次男は秤のおかげで、みんなからいろいろ言われ、「この秤、正確なの?」とぼやいていた。Nakagawa_088

| | コメント (2)

より以前の記事一覧